2012年11月11日日曜日

2012年11月11日 説教要旨


「人には尊ばれ、神には忌み嫌われ」 ルカ16章14節~18節

 「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」(16節)。これは、イエス・キリストが来られたことによって、新しい時代が到来したことを宣言するものである。律法と預言者は、旧約聖書のことを指す表現だが、旧約の時代は救いの到来をひたすら待ち続ける時代であった。それに対して、今はその救いが到来した、新しい時代なのである。その救いの中に、人々は力ずくで入ろうとしていると言う。何か自力で入ろうとするかのように聞こえるが、人にはその中に入り込んでいく力はないのだ。入り込む力は神の側にあるのだ。ルカ14章の盛大な宴会を催した主人のたとえを思い起こそう。宴会に招待される資格のなかった者たちが、次々と宴席を埋めるために通りや小道から無理矢理に連れて来るという話であった。神様の方が力ずくで人々を神の国へとかき集める、という話。この話を思い出せば、ここの意味がより分かるのではないか。だからある人はここを「だれもが皆、激しく招かれている」と訳すべきだと言っている。イエス様の「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」という言葉を連想されよう。心が貧しいというのは、「神様、あなたの憐れみにすがるより、私が救いに入ることなど考えられません」と神様の前に小さくならざるを得ない者のこと。実は、すべての人がそのような者であるはず。しかしそういう人こそが、救いの中に招き入れられると言うのである。そうやって、何の資格もない者が神様の憐れみによって神の祝福の中に生きることができる時代が到来したのである。それにもかかわらず、自分の力だとか、自分の立派さだとか、自分の正しさによって、救いの中に入ろうとする者たちがいた。それがファリサイ人たちである。14節に、「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った」とある。一部始終というのは、イエス様が不正な管理人のたとえを語り、これを模範とするように弟子たちに言われたことを指す。ファリサイ人たちは思った。「神様は不正など、ほめられることなどない。神様は正しい人がお好きなのだ。この我々のような正しい者たちのこと・・・。このイエスという男は神様のことなど、ちっとも分かっていないではないか」・・それであざ笑ったのである。彼らは、自分の力、正しさ、その自信にあふれていた。

 そこで、イエス様は彼らに言われた。15節、「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」。人から賞賛される彼らの信心は、神の前では退けられ、忌み嫌われてしまうものに過ぎないと言う。なぜか・・。自分の良心によって立っているからである。神の恵み、憐れみを必要としていないからである。自分の力で、堂々と胸をはって、神様の前に自分の正しさを主張することができると思い込んでいる。それは、神様が忌み嫌われることでしかないのである。イエス様は、そういう彼らの正しさは、神様のまなざしには穴だらけであることを離縁の問題を実例に取り上げて語られた。「妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる」(18節)。神の律法には「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」と書かれている。この律法の趣旨は、本来離縁は望まれるものではないが、どうしても2人がうまく行かず、これ以上、2人が一緒にいることは、互いにもっと深く傷ついてしまうことになるのであれば、別れて新しい生活をそれぞれに持った方がよいという神様の憐れみに根差すものであった。だが、当時のファリサイ人たちは、気に入らない妻を離縁するための根拠として都合よく利用していたのである。男のエゴを貫くための手段として悪用したのである。それでいて、自分たちは神の律法に忠実に生きていると主張する。彼らの「律法への正しさ」は、自分たちに都合よく解釈し、変容させられてしまった中での正しさに過ぎなかった。17節「しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい」とあるように、この新しい時代は、人間に都合よく骨抜きにされてしまっていた神の律法がその本来の姿を取り戻される時なのである。

 神の憐れみによって立とうとするのか、それとも、なお穴だらけでしかない自分の正しさによって立とうとするのか、そのことが問われている。ファリサイ人たちは、人々から見られることを気にして、人々から、「あの人は立派な信仰を持っている」と賞賛されることを求め、周囲の目だけが大きくなって行った・・・。しかし、人は人々だけに見られて生きているのではない。神の目にも見られている。しかしその神の目は、それに見つめられていることに気づいたとき、それを自覚したとき、自分の身勝手さ、小ささ、弱さ、愚かさを示され、のさばっていた自分の正しさが打ちのめされて、神の御前での貧しさに恥じ入り、謙りに導かれ、心を開いて上からのものに満たされることを切に祈る者とされるのである。神の目は弱い者、力のない者、傷ついた者を立たせる憐れみの目であるが、同時に、自分の力を誇り、自分の立派さを主張する者にとっては、それを厳しく退ける目である。私たちは、この神の目の中にあるとき、周囲の目を病的にまで気にする恐れ、不安から解放される。どもりの少年が礼拝で祈りを見事にしたように。