2012年9月9日日曜日

2012年9月9日 説教要旨


主の弟子になる道 」 ルカ14章25節~35節 

 「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」(33節)とある。厳しすぎる言葉だろうか。「捨てる」という言葉、これはニュアンスとしては「神にお返しする」という感じである。捨てると言っても、ゴミ箱に入れるわけではない。そもそも神からいただいたものなのだから、全部、神にお返しするのである。私たちは何ひとつ持たず、裸で生まれてきた。本来、自分のものは何ひとつない。自分の持ち物ではないのに、自分のものだと思い込んで、絶対に離すまいと握り締めていたら、それをつぶしてしまう。「握り締めずに離しなさい。そうすれば、最高のものが得られる」と主は語っておられるのだ。中々そんなことはできないと思うかも知れないが、たとえばオレオレ詐欺事件に見られるように、自分の子どもを助けたいと思ったときには、親はいくらだってお金を払う。一番大切なもののためには、二番目以下のものを手離すことは本来、人間にとってできないことではないのである。その意味では、私たちにとって当たり前のことを主は語っておられると理解することができる。イエス様の弟子たる者にとって一番大切なものは神であって、神を優先順位一位にして生きるのが弟子である。そして一番大切なものを大切にするために、二番目以降のことをどうやって手離して行くかにチャレンジする。その戦いを信仰の仲間と共に励まし、支え合いながら続けて行くのが信仰生活なのだ。手離すのは惜しいことである。しかし手離すとき、全部もらえるのである。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6章33節)と主が言われたように。多くの場合、私たちは離すまいと握りつぶしてしまうのだ。自分の子どもがかわいいからと言って、ずっと手の中に入れておこうとすれば、子どもはつぶれてしまう。恋人だって、手の中に入れて管理するみたいになれば、相手は窒息すると言うだろう。私たちはこれが大事と言って離すまい、離せないと言って握り締めるのだが、それによってかえって、失ったり、つぶしたりしてしまうのである。そういう失敗をしてしまう私たちに主は、あなたが握り締めるのではなく、神に向かってそれを手離し、神にお委ねして行けば、それらのものはすべて加えて与えられるという喜びの世界を語っておられる。それが弟子として生きる者に与えられる祝福なのだ。

信仰の父と呼ばれるアブラハムは、自分の独り息子イサクを神にいけにえとして捧げようとした。イサクは彼にとって大事な跡取りであり、神の約束の担い手となる人間だった。しかしアブラハムはその子を神の命令に従い、捧げようとした。神は寸前のところでそれをやめさせ、アブラハムに再び、イサクを与えられた。この出来事は、アブラハムが二番目に大切なものを神に向かって手離す。神を信頼して委ねる。そのとき、神はそれ以上のものを与えてくださる方であることを体験した出来事である。兄弟、姉妹、家族、こんなに大事なものはないのだが、それを本当に大事にするためにも、一度、神にお返しして、神から受け取り直すことが必要だ。この子は自分のものではない。神のもの、神からお借りしている者であるから、自分の手の中に入れて支配しようとするのではなく、神のものとして、神が喜ばれるようにこの子を育てよう。それが親の務めだと考え直すようになる・・・。神から受け取り直すとき、そういう考えがその人の中に生まれる。子どもだけではない。財産、持ち物、そして自分の命、あらゆるものを一度、神にお返しして、神からお借りするものとして、これを受け止め直す。そうして行くときに、本当の意味で私たちは家族にとって祝福となる。塩のような働きを担えるようになる。

 私たちは、健康やお金、情報を握り締めようとし、いろいろなものを抱え込んでいるが、そういうものを神に向かって手離す、委ねるのだ。そうやって何もかも手離したかに見える空っぽの手を、神は持てるすべてを注いで満たしてくださる。それが信仰であり、弟子の道なのだ。神はそうやって空っぽになった手をご覧になると、満たさずにはおれない方なのだ。考えてみると、自分の手の中に一杯何かを残していたら、神が何かを与えようとしても、もう手の中には入らないではないか。今朝は敬老のお祝いをする。年を重ねるということは、今まで持っていたものをひとつひとつ手離して行くことである。自分の能力や財産、家族・友人、そして教会での集まり、そういうものをひとつひとつ神に向かって手離していく。最後は何も分からなくなってしまうこともある。それは本当にすべてを手離してしまった状態に近い。だが神はその人を満たしてくださる。永遠の命の祝福をもって。だから、年を重ねるというのは、弟子として歩みの仕上げをしていることだと思う。神に向かって、すべてのものを手離して、もっとすばらしいもので満たしていただくという信仰の仕上げのとき。今朝の箇所には、2つのたとえが組み込まれている。2つとも、「賢くある」ことを教えている。その賢さとは、神を信頼する賢さである。手離そうとしない私たちに、神は計算を超えた圧倒的な力と恵みをもって、迫って来られる。その方を前にして、「我」を張ったところで一体、何になろう。神の恵みに降参して、「あなたにお任せします」と、自分を神に明け渡すのだ。私たちの計算を超えた神の祝福が私たちに注がれるのだから。