2012年9月30日日曜日

2012年9月30日 説教要旨


「自由を求めて不自由になる」 ルカ15章11節~32節() 

 放蕩息子のたとえ話は、イエス様が2000年も前に「人間は神様の目にどのような姿に映っているか」をお語りになった物語であるが、その姿は現代の人間にも当てはまる鋭さを持っている。「ある人に息子が二人いた。・・・弟息子は分けてもらった財産をすべて、お金に換えて、遠い国に旅立って行った」と、この物語は始まる。2人の息子は、父親の深い愛情のもとに暮らしていた。息子たちにとって、この父親の愛のもとにいるということ、それが彼らが生きられる根拠だった。ところが弟息子は、父親のもとにいるという「命のつながり」を「お金」に交換してしまう。そこから放蕩の旅が始まる。現代の社会は、「経済性」が最優先される。つまり、神とのつながりを、お金に換えて、お金を生きる基盤に据え換えてしまった時代である。30年後に原発0を目指すという閣議決定が、経団連の強い反発によって見送られたのは、世の中が経済優先で動いていることを象徴する出来事だった。経済性を最優先することによって、人は幸せをつかめると考えているのが現代である。しかし神とのつながりを捨てたところで、人は幸せになれるのであろうか。

弟息子は、父親から生前贈与を受け、得た財産をすべてお金に換えて父親の元を離れて遠い国に旅立つ。当時のユダヤでは、生前に遺産を相続させることで、子どもに生活の基盤を早めに作らせるという習慣があった。その場合、財産の運用に関しては父親の監督指導を受けねばならなかった。弟息子は、それを嫌った。あなたの言うことなど、いちいち聴いてはいられない。父親からの制約を受けず、自分のやりたいように生きるところに、本当に自分らしい生活があるし、自由も幸せもあると考えたのだ。だがそれは・・・幻想に過ぎなかったことが次第に明らかになる。

 弟息子は、何かの仕事をするわけでもなく、放蕩の限りを尽くした。そして財産を使い果してしまったところで、飢饉に遭う。おそらく財産があった間は、彼の周りにはたくさんの仲間いたに違いない。けれども、いのちのつながりをお金に換えた世界では、一文なしの弟息子の周りには誰も助けてくれる人はいなかった。それで仕方なく、弟息子はある人のところで豚の面倒を見ることになった。でも、あまりの空腹で「豚のえさで空腹を満たしたいとさえ」、思うようになった。堕ちるところまで堕ちた弟息子は、我に返って言った。「ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と・・・」。

「我に返った」という言葉は、原文ギリシャ語では「自分自身の中に戻って来た」という意味の言葉である。聖書の見るところ、弟息子は自分自身の中にいなかった。自分を失っていたのである。父の元にいたとき、そこから離れないと、自分らしく、自由に生きることができなくなると思って家出をした彼だが、それは本当の自分を喪失することでしかなかったのだと聖書は言う。本当に彼らしく、自由に生きられる場所は父親のもとにあったのだと言うのである。弟息子は、堕ちるとこまで堕ちて、やっとそのことに気がついた。お父さんのもとで、お父さんの言う事に耳を傾け、お兄さんとも仲良くし、当然、そこでなさねばならない義務を果たし、一生懸命に生活をすべきであった。時には、自分のやりたくないこともやらねば、一緒に生きていくことはできない。しかし、そこでこそ、本当の自分を見つけられるのであったと・・・。弟息子は、悲惨の原因を自分が父親のもとを離れたからだと認識した。運悪く飢饉が起きたからだと環境のせいにするのではなく、助けてくれる人が一人もいなかったからだと周りの人のせいにするのでもなく、自分自身の中に原因を認めたのである。弟息子は帰る。父への謝罪の言葉を胸に・・・。一方、父親はそんな息子の帰りをずっと待ち続けていた。父親は、毎日、毎日、弟息子の帰宅を待ち続けて外に立って、遠くを眺めていた。だから、弟息子がまだ遠くにいるうちに見つけることができたのである。父親は自分の方から走り寄り、弟息子を抱いた。当時の父親は威厳を保つために人前で走ることはしなかったと言う。だが、父親は走った。そしていちばん良い服と指輪と履物を与え、言葉ではなく、行動で彼が大切な息子であることを示した。弟息子は、父の懐に抱かれる中、準備してきた謝罪の言葉を最後まで口にすることはできなかった。父親がそれを言わせなかったのである。父の慈しみの中で、弟息子は自分の命を再認識する。そう、自分の命は待たれている命だったのだと・・。自分の命は、放り出された命ではなく、どこかを漂ってやがて消滅して行く「はかない命」でもなく、待たれている命なのだと。信仰とは自分の命が待たれている命であると知ることである。神によって愛され、待たれている命。経済優先のこの世を生きる中で、傷つき、ぼろぼろになってしまう命、自分でつけてしまった傷があり、自分では何の解決も出来ない、そんな傷を持った私たちの命をそのまま受け止め、包み込んでくださる方がいる。この命を待ってくださっている方に向けて私たちは生きる。私たちの人生の終わる日、神はゴール地点で私たちを受け止めようと慈しみの手を広げて待っていてくださる。マラソンランナーのゴールを、大きなタオルを広げて包み込もうと待つ仲間のように。それが私たちの命であり、信仰であり、希望なのである。