2012年1月1日日曜日

2012年1月1日 説教要旨

主は与え、主は奪う 」 ヨブ記1章1節~22節

ヨブ記のテーマは「苦難」であると考えられているが、その最初のところに神とサタンの対話の場面が出て来る。ここでの神に対するサタンの言い分は、「人は利益もないのに神を敬うだろうか。つまり、人は本来、神とは無関係でいられるのだけれども、利益が欲しいから人は神を求めるのではないか」というもの。だからもし、その特典というか、ご利益というものがないならば、人は神を敬わないだろうと。ヨブは多くの財産を持ち、子どもに恵まれ、栄えている富豪だか、彼はその受けたご利益に応じて神を敬っているだけで、もし不利益がそこに起これば、おそらく神を呪うだろうとサタンは言う。サタンに対して、「じゃあ好きなようにしてみるが良い」と神はサタンが試みることを許された。その結果として、地上ではヨブの苦難の物語が始まるのである。ヨブは一日にしてすべての財産を失うことになる。

ヨブの牛が畑を耕し、ロバが草を食べている。実にのどかな平和な光景。この平和な光景が、シェバ人が襲うことによって暗転してしまった。その報告をまだ聴き終わらないうちに、彼の財産である羊が、天からの火によって焼け死んで、皆、死んでしまった。その羊の番をしていた召使いたちも、ひとりを残して皆、死んでしまったという。「天からの火が降って」というのは火山の爆発を意味するものと言われる。すると、そこにもうひとつの報告が入る。今度はらくだ。カルデア人が三部隊に分かれて襲ってくる。ということは、それは計画的犯行。逃げ場がないような形で襲ってきて、略奪をほしいままにした。さらに、もうひとつの報告が入る。ヨブの子どもたちが宴会をしているところに突風が吹き、家をつぶしてしまい、子どもたちは皆、死んでしまった。次々と寄せられるこれらの報告には「何でこんな事が」という思いと同時に、神への不信ということが背後に隠されているだろう。「何もしていないのに、こんなことになるなんて。神を信じても何の利益もないではないか。それどころか、ひどい目に遭うことだってあるではないか、それでも神を信じることに意味があるのか」、という問いである。

 もちろん私たちの人生、楽に生きることはできないと私たちはよく知っている。何事もなく、平穏に一年が過ぎるなんてあり得ない。私たちは一年、一年、年を取る。弱る。あるいは仕事のことで何があるか分からない。波風が襲う。そして負い続けなければならない重荷も依然としてある。それは何も変わらない。だから何事でも起こりうるのだ。私たちはそういう人生に対して、この報告のように、何となく恨みがましくなる。私はとりわけ悪いこともしていないのに、何でこんなことが私の身に起こるのか。何で私の回りにこんな悪い隣人がいるのか、と恨みがましい気持ちになる。一旦、そうやって私たちは倒れてしまったり、つまずいたりすると「ほれ見ろ、何だ」という思いにとらわれてしまう。

 しかしそこで、「ヨブは立ち上がり」と書いてある(20節)。この「立ち上がり」という表現は、ヨブが打ちのめされていたことを前提としている表現。ヨブは報告を聴くたびに滅入って行った。「もうこれでたくさんだ」と思っているところに、悪い報告が次々と入るからヨブはもう打ちのめされてペチャンコになっていた。だから「立ち上がり」と書いてあるのだ。ヨブは信仰によって決然と立ち上がった。打ちのめされているヨブが「信仰のゆえに」そういう状況の中ら立ち上がった。この人生の降り積もる苦難の中でヨブは立ち上がる。信仰が人を立ち上がらせる。信仰こそが人を立ち上がらせる。他の何でもない。それでも神を信じようという信仰こそが人を立ち上がらせるのだ。そして言う「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(21節)と。人間は皆そうだ。私たちも人生で色々なものを受け取りながら生きて行く。この世の色々な生活をするために必要なものもあるし、あるいは人から与えられる名誉や賞賛もあるかも知れない。色々なものを身につけながら生きているが、最後は裸で帰る。色々なものをひとつひとつ剥ぎ取りながら・・・というか、失いながら。どんなに私たちが「これは大事だから取って置きたい」と言っても、最後は手放さなければならない。これは普遍的な真理と言っていい。私たちの人生は与えられ、そして奪われるということがある人生だ。しかしヨブの言葉はそこで終わってはいない。主は与え、主は奪う・・・そこには与え、奪うという主体がおられる。主語がある。それは神、神が与え、神が奪う。サタンが奪うのでもなく、悪意を持つ隣人が奪うのでもない。私の人生の主語は神、神が主語なのである。その神が私たちの人生の主語として、最後まで責任をもって関わっていてくださる。その信仰こそが人を困難の中で立ち上がらせる。私たちはその神と出会いながら、その神に聴きながら、その神に祈りながら生きて行くことができる。たとえ、何かがなくなって行くとしても、神に聴きながら、神に祈りながら生きて行くことができる。私たちにとって最終的になくてはならないものは物ではない。地位でも、人からの評価でもない。自分と向き合って、この私の声を聞いてくださり、私に語りかけてくださる方がおられるということ、そのことが私たちの真の生きる支えなのである。先日、武井姉、神宮字姉を訪ね、まさにその現実に触れ、力づけられた。