2011年12月18日日曜日

2011年12月18日 説教要旨

望み尽きる時に 」 ルカ8章49節~56節

会堂長ヤイロはイエス様の足元にひれ伏して、自分の家に来てくださるよう願った。12歳ぐらいの一人娘が死にかけていたからだ。大勢の群集がイエス様を取り囲んでいる中でその願いを聞き入れてもらえた。どんなにか、感謝したことであろうか。ところが家に向かう途中に、12年間出血がとまらなかった女性がイエス様の服に触れるという事件が起こった。イエス様はヤイロの家に向かうその足を止めて、その女と立ち話を始める。ジリジリするような思いで、ヤイロはその対話を見ていた。一刻も早く、この方を娘のところにお連れしなければならない。死んでしまったら、もうどうにもならない・・・。やきもきしているうちにも時間は経ってしまう。そして、そのときついに恐れていたことが・・。会堂長の家から人が来て、「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません」と言った。からだ中の力が抜ける・・・。私たちは比較的小さな事柄には神の助力を願うものの、「こればっかりはだめでしょう」と大きな事柄に関しては、イエス様の力をもってしても無理とあきらめて願わないのではないか。イエス様の力を自分の方で限定してしまう。そうやって難題を解き放つ主を見失うのである。ヤイロも同じ考えだった。イエス様という方は、大変すばらしい力を持っているけれどもそんな力を持っているこの方であったとしても、死に対しては無力だ。命がある間はまだ希望があると思う。だからあらゆる努力をし、また祈る。しかし死んでしまったら、もうそこでおしまい。死の事実を前にして私たちは力尽きたと思う。しかし私たちが力尽きてなす術なし、ただ立ちすくむだけのところで堂々とその現実をはねのけるように「恐れることはない。ただ信じなさい」と言ってくださる方が私たちの傍らにおられる。

 ヤイロはその言葉に支えられるようにして家に向かう。すると娘のために人々が泣き悲しんでいる。ヤイロの心は動揺する。イエス様はその泣き声を突き破るよう「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ」と言われる。娘が死んだことを承知の上で眠っているのだと言われる。人々はこれを聞いてあざ笑った。イエス様は両親とペテロとヤコブ、ヨハネだけを連れて死の中に踏み込んで行かれる。あとの者たちはついて来ることをお許しにならなかった。これでもう終わりだとあきらめてしまっている者たちは連れて行かなかったのである。人々があきらめてしまったとしても、なお、あきらめることができない両親だけを連れて行かれた。私たちの信仰というのは、あきらめてしまったところで終わり。ここまでだと思ったところが私たちの終わり。ここまでは一生懸命祈ってきた。でもここからはもう何もないと思ったところで終わる。こんなつらい場面ではもう信仰も役に立たないと思ったらそこで終わる。こんなひどい場面ではもう神様は関係ないと思ったら、そこで終わるのだ。しかしイエス様はその向こうに行くことを期待される。ここから先はもうどうにもならないと人々が投げ出す、その場所にイエス様は踏み込んで行かれるのである。「娘よ、起きなさい」、イエス様の言葉が響きわたると同時に人々の目には死んだと映っていた少女が本当に眠りから覚めるように起き上がった。

「ただ信じなさい」とイエス様は言われる。これはヤイロだけではなく、私たちに対する呼びかけでもある。ならば、信じるとは何を信じることなのか。ヤイロの場合、娘を生き返らせることができるということを信じなさいと意味で語られた言葉であることに疑いの余地はない。だが私たちの場合はどうか。この娘のように一度死んだ人間をもう一度生き返らせてくださるというようなことをイエス様はしてくださらないではないか。そう、イエス様はヤイロの娘を生き返らせることを通して死に打ち勝つ力を持つことを示された。私たちの場合、その力を時計の針を戻して死者を生き返らせるためにではなく、時計の針をさらに進めて永遠の命の中へと進ませてくださるために用い下さるのだ。私たちの時計が死でもって止まったままになることをイエス様はお許しにはならない。イエス様の愛がそれをお許しにならない。信じる・・・それは、イエス様に愛されていることを信じるということなのだ。イエス様の愛が、私たちを死んだままにしておくことはなさらない。死でもって私たちの存在が終わってしまうようなことを決して許さない。必ず「終わりの時」に復活させてくださる。永遠の命に与る者としてその存在を新しくしてくださる。

 ヤイロとは「神が目覚めさせてくださる」という意味。この物語は私たちの目を覚まさせてくれる。死んだら終わりだと思っている私たちの目を目覚めさせてくださる。どんなに大きな愛が私たちに注がれていることか。それは死でもって終わることを許さない。私との交わりがそこで途絶えてしまうことをお許しにならない、それほどの激しい愛が注がれている、そのことに目覚めさせてくれる。そしてそのことを知ることが信仰なのである。死んだ少女のもとにイエス様は踏み込んで行かれる。後に、イエス様は再び死の中に踏み込んで行かれる。十字架の死の中に・・・。それは、私たちの時計が死で以って終わらずに、永遠の命へと進むことができるように、イエス様ご自身の存在を賭けた行為であった。私たちの命は永遠に癒されたものとしてある。そういう命を私たちは生きている。