2014年5月25日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  6月2日~6月8日

6月2日(月) テサロニケの信徒への手紙Ⅱ 2章1節~12節(Ⅰ)
  第二の手紙が書かれた理由を読み取れる箇所です(2節)。ある人たちは主の再臨がもう来てしまったと思い、慌てふためいて分別をなくしたのです。分別というのは、見分けることができると言うことです。同じひとつの現実を見ても、そこに神の支配を見られる人もいれば、神の支配などまったく見ようともしない人がいます。パウロは現実の世界の中で、神の見えない支配をきちんと見られる、見分ける力を持つように、と勧めています。一見して人間が作り出しているように見える日々の出来事、大きくは歴史の中に、人間の思惑を超えた神の支配が働いていることを信じるのです。そこに慌てない生活も生まれるのです。

6月3日(火) テサロニケの信徒への手紙Ⅱ 2章1節~12節(Ⅱ)
  信仰の誘惑の一つは、真理を喜べなくなるということです。神の教えよりも不義を喜んでしまうのです(12節)。サタンにそそのかされて真理を愛せなくなるのです。神が私に求めることは難しいことばかりで信じることがつまらないとか・・・・。神の真理を愛さなくなる時、私たちは自分を神としているのです。アダムとエバを襲ったように、サタンは「 自分が神になればいい 」とそそのかします。真理を心から愛する生活が、不義を愛する生活に打ち勝つように祈りましょう。

6月4日(水) テサロニケの信徒への手紙Ⅱ 2章13節~17節
  「 あなたがたを聖なる者とする“霊”の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです 」(13節)。神の選びの業が語られているところで、「 真理に対するあなたがたの信仰とによって 」と言った具合に、神の選びに私たちの信仰が関わっていることが語られています。私たちの側の信じるという行為がなければ、神の選びは全うしなかったのです。これは神の選びの不完全さと言うことではなく、神はいつもそのようにして、私たちが神の御業を信じて受け入れることを待ち、かつ期待しておられると言うことです。一方では神のご計画があると知りつつも、もう一方では私たちが神に願い祈るのも、同じ信仰理解に基づいてのことです。だから祈りましょう。

6月5日(木) テサロニケの信徒への手紙Ⅱ 3章1節~5節
  パウロの手紙には、伝道者(パウロも含めて)のために祈ってほしいという言葉がよく出てきます。人を信仰に導くのは、人間には不可能なこと、神の御業です。それだけに神の言葉を語る伝道者の拙い言葉を通して、神が御業をなしてくださるようにと、伝道者のために祈ってくださいと言わざるを得ないのです。悪人に対しても信仰がない人にも(2節)、神の愛が勝ってくださるように(5節)。この世が神の愛の勝利に救い取られる日を一日も早く与えられるように。そのためにも、伝道者もそれを聞く信徒も、あなたが命じて下さっていることを実行し続けることができるように(4節)。そこに喜びを見出すことができるように、と祈るのです。

6月6日(金) テサロニケの信徒への手紙Ⅱ 3章6節~15節
  「 自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい 」(12節)とパウロは勧めます。テサロニケ教会の人たちは、主の再臨、すなわち世の終わりが近いと思い、落ち着かず仕事に手がつかなくなったのです。落ち着いているには、自分の居場所を、自分が今何をすべきかを知っている必要があります。しかし落ち着いてパンを得るために一生懸命働こうと言うのは、パンを得るために働いている仕事を受け入れている人でないとできません。つまらない仕事だと思っていたら仕事に身を入れることができません。パンのために働くなんて何とつまらない、となってしまいます。ここでは、働くことの尊さを知りなさいと言っているのです(マタイ6章34節参照)。これは信仰に根差して、主から初めて教わることです。「 日毎の糧を与えてください 」と祈るように言われた主が教えてくださることなのです。

6月7日(土) テサロニケの信徒への手紙Ⅱ 3章16節~18節
  手紙の最後は、祝福で終わっています(16節)。教会によっては祝祷と呼んでいますが、これは祈りではありません。祝福は、すでに主が私たちと共にいてくださると言う祝福を確認しているようなもので、祈りのように祈ってもそうなるかどうか分からないと言うものではないのです。そこにもう祝福があるのです。私たちの教会の礼拝も最後は祝福です。新しく始まる1週間の生活に祝福があるようにと祈っているのではなく、すでに私たちは祝福の中に置かれていて、その祝福に支えられて、祝福から1週間の生活に出て行くことを確認しているのです。

6月8日(日) テモテへの手紙Ⅰ 1章1節~11節
 テモテの手紙は、テトスの手紙と並んで牧会書簡と呼ばれています。つまり、牧師の務めについて教えている手紙なのです。この手紙はパウロからテモテに宛てて書かれました。若い伝道者テモテは、エフェソ教会の牧師でした(3節)。エフェソの教会は、病んでいる教会でした。教会の病みは、いつも教会が健全な教えに立てなくなることから始まります。何を教え、何を語り、何を神の言葉として聞くか?牧師はその責任の多くを担っています。教会を病ませる教えが入り込んで来た時、牧師はそれを見抜いて素早く断ち切らねばなりません。教会の健やかさを保つために、神の言葉を正しく聞き、正しく語ることを崩してしまうような知恵や言葉(例えば、先祖の祟りとか)に心を誘われてしまわないようにしましょう(4節)。

先週の説教要旨 「 神の救いを侮るな 」 使徒言行録13章13節~41節 
 パウロとその一行は小アジアの南、ピシディアのアンティオキィアで伝道を始めた。ユダヤ人の会堂に入ったパウロは説教をする。その説教が今日の箇所。その説教は、25節までの前半部分と26節からの後半部分と、二部構成になっている。前半部は、イエス様が来られるまでの旧約の歴史を語り、後半部はそのイエス様の十字架とよみがえりを語っている。前半部では、キリストが来られるまでの旧約聖書の歴史を振り返りながら、神様は選び出す神、導き出す神であり、その導きは、耐え忍びながらの導きの連続であったことを語る。なぜ、耐え忍ばなければならなかったのか。神の民は、神に応える歩みをしなかったから。神はいつでもそこで裁きを行なうことができたが、それを耐えて、赦している。約束の地を征服したときも、士師記の時代も、民が王を立てることを求めた時も、神は忍耐された。やがて、その王、「 ダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださった 」(23節)。「 救い主イエスを送ってくださった 」という言葉は、26節においは「 この救いの言葉はわたしたちに送られました 」と言い換えられているが、「 送られた 」という言葉は、原文ギリシャ語では見知らぬ土地に送り込むこという意味がある。神の民の中に送り出されることが、神にとっては全く異質の世界の中に救い主イエスを送り出すのと同じ意味を持ったとパウロは言うのである。救い主の登場に先立って、バプテスマのヨハネは民全体に悔い改めることを求めた。それは民が、神からご覧になると、とても神の民とは思えない異質な生き方をしていたからに他ならない。ここに示されている神のお姿は、忍耐をもって選びの民を導き続けられるお姿である。そもそも、なぜ、神はイスラエルを選び、忍耐に忍耐を重ねながら、イスラエルを導き続けられるのか・・・。それは、神が人と共にあることを強く求めておられるからだ。神はエデンの園では、アダムとエバと共におられた。しかし、彼らは神に背き、その結果、彼らは神から切り離され、園から追い出された。そのとき、神はこの地上にご自身の臨在の場所を失った。地上は罪に汚れてしまい、すべての被造物は虚無に服してしまったからだ。しかし、神は人と共にあることをあきらめることできなかった。それで神はアブラハムを選び、その子孫に幕屋を建てるように指示された。幕屋という聖められた場所を設け、神はご自身の臨在の場所とされた。幕屋の一番奥、至聖所に神は臨在された。そこに行けるのは、年に一度、大祭司1人だけであった。そこで彼は民を代表して、かつてアダムが持っていた神と共に語らうという体験をしたのでる。罪を犯して服役中の人と面会することは、空間も、時間も、人数も極めて制限される。それと同じように罪を犯している人間と交われない神が、唯一、幕屋という狭い窓を通して、たった一人の大祭司と対話しながら、人類に対する愛を持ち続け、また、それを発展させられたのである。後に幕屋は神殿へと発展するが、預言者エゼキエルの時代になって、神の臨在を示す雲が神殿から去って行く(11章)。イスラエルの民が偶像を拝み続けたからだ。民はバビロン捕囚というお取り扱いを受け、捕囚から解放されると、第二の神殿を建てる。それは最初の神殿に比べるとかなり見劣りするものであったが、ハガイは「 この宮のこれから後の栄光は、先のものに勝ろう 」と預言した。この予言は、イエス・キリストにおいて成就する。イエス・キリストはこの第二神殿を打ち壊し、新しい神殿を建てると言われた。そしてその新しい神殿とは、ご自分のこと。このイエス・キリストにおいて、神はすべての人と面会をする道を開こうとされた。どんなに罪深い人間であっても、このイエス・キリストを通して、イエス・キリストにあってならば、誰でも神と会うことができる。イエス様が十字架で死んだとき、神殿の聖所と至聖所を隔てていた幕が切り裂けた。神と罪びとが面会する、一切の制限が、あのとき、取り除かれたのだ。誰でもイエス様にあって、神と会うことができるようになったのである。旧約から続くこういう神の忍耐と導きがよく理解できると、「 イエス・キリストが私たちに送られた 」というこの言葉の意味の味わいがより深くなるだろう。この言葉には、旧約聖書に記された神の導きと忍耐、人類に対する変わることのない愛の思いが、一点に凝縮されて、それが感極まった形で現れて来ているのだ。その救い主が現れたとき、人々はどうしたかをパウロは説教の後半で語る。その要点は、ダビデを通して与えられていた約束は、イエス・キリストにおいて現実のものとされた。しかし旧約の預言を理解していなかった人々は、そのイエスを理解せず、かえってこれを罪人と断定して、十字架につけて殺してしまった。イエスを殺すことこそ、神に従うことだととんでもない勘違いをしていた。しかし、驚くべきことに、神はイエス・キリストが十字架で殺されてしまうことによって、神と人類が面会する道を開かれた。何と深い神のご計画か!神の愚かさは人よりも賢い!神はそこでもまた忍耐をされて、あなたがたを導こうとなさっている。その神の恵みの導きをもはや、侮ってはならない。神はキリストを十字架につけて殺すという、あってはならないことを、救いへの扉を開くものとされ、なくてはならないものとされたのだ。この不思議な神のなさりよう、深い知恵の込められた恵みの導きをこれ以上、侮るなと語る。私たちはどうか。 (2014年5月18日)