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2013年3月17日日曜日

2013年3月17日 説教要旨


「 すべてのことが意味を持つ 」 ルカ20章27節~40節

ある哲学者が「愛の最も由々しい敵が憎しみではなく無関心であるように、信仰の最も由々しき敵は退屈なのです」と言っている。なぜ、「生きておられる神様」を信じているにもかかわらず、その信仰が干物のように干からびた、生き生きとしない、退屈な信仰になってしまうのか。我々は真剣に「神は生きておられる」ということを、信仰をもって受け止め直さなくてはならないのではないか・・・と。イエス・キリストが地上の生活をしておられる時に戦われた、その戦いもまた「退屈になった信仰」を巡っての戦いであったと言える。信仰が退屈な生き方を生んでしまう、それは罪なのである。退屈の罪との戦い、退屈な信仰を生き生きとした信仰によみがえらせる、それがイエス様の戦いであったと言うことができるし、言い換えると、イエス様が戦ってくださらなければならないほどに、退屈な信仰から脱出することは我々には容易ではないということ。今朝はルカ20章27節以下を読む。復活を信じていないサドカイ派の人々が議論をしかけて来た。これは議論のための議論であって、それこそ退屈な話である。サドカイ派の人たちは、こういうことを真剣に考えるほどに、退屈な信仰になってしまっていたのだ。サドカイ派は、ファリサイ派と異なり、死者の復活を信じていなかったが、イエス様も復活を語っておられると聞き、イエス様を論破しようとやって来たのである。「ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」というモーセの律法の掟を引き合いに、もし7人兄弟がいて、7人とも子を残さなかった場合、全員の妻になった女は、復活の時、誰の妻になるのか、というのである。神の掟は、一人の女性が同時に何人もの夫を持つことをよしとしていない以上、復活があるなら神の掟の中に矛盾が生じてしまうではないかと言う理屈である。これはただ相手を負かしてやっつけるという目的だけの、いわば議論のための議論に過ぎない。筋は通っているがそこには夫を失った妻に対する同上はひとかけらもない。一体私たちの生活において、ただ神の掟にそう書かれているからという理由で、まるで子どもを生むための機械のように次から次へと夫を取り替えてしまうことがあり得るだろうか。そういう想定をしてみせること事態が極めて非人間的だし、およそ現実離れした頭だけの信仰、生き生きとしていない、言わば干物のように干からびた退屈極まりない信仰の姿である。

イエス様は彼らに対して、復活はあるのだと言うことを聖書から論証なさる。「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」(37節、38節)。神は死んだ者の神ではない。生きている者の神、アブラハムも、イサクも、ヤコブも確かに死んだのだが、神は死んだ者を死んだままにしておかれない。神はいつでも生きている者の神であり続ける方だから、たとえ死んだ者であっても、神はそれをご自身の前に復活させる。生きた者とされる。神の激しい愛が死んだ者をそのまま放っておかないのだ。「私が生きているので、あなたがたも生きることになる。すべてのものは神によって生きる」。復活を保証するにはそれで十分ではないか。イエス様はそう言われるのである。これは何と、慰めと恵みに満ちた宣言であろうか。神が生きておられる限り、すべてのものが生きるようになる。死んだ者も復活する。いや、これは復活だけにとどまらない。神が生きておられる限り、神の御前にある「すべてのこと」が命を帯びてくるようになる。意味のあるものになっていると言うのである。神に愛でられている私たちにとって、無駄なことなど一切ないのだ。つまらない雑用も、無駄と思える努力も、空しく過ぎたと思える時間も、踏みにじられたあなたの愛の業も、役に立たなかった準備も、報いられなかった忍耐も、はかなくついえた希望も、皆、生きるのだ。孤独も、病気も、不幸も、悩みも、痛みも生きる。神の御前には、無駄なことなどまったく存在しないのである。皆生きる。すべてがいのちの輝きを帯び、意味あるものとして輝き始める。私たちの神はそのようなことをなさる方なのだ。私たちがこれは何の意味も無い空しいことではないかと思う、そのことを神は意味あるものとしてくださる。そのことが分かると、信仰は生き生きとした信仰にならざるを得なくなる。退屈な議論のための議論を繰り返す、頭だけの信仰に堕してしまうことなんか起こり得ない。すべてが生きるのだから。今、子どもが生まれない夫婦のために、別の女性のお腹を借りて、子どもが与えられるようにする医療技術が生まれた。また、iPS細胞は医療技術における夢の扉を開きつつある。大いなる期待を込めて苦しみに耐え、待ち続けている人たちもいる。だが倫理的な面からの問題も提起されている。どこまで人間の願いを貫き通してよいのか、踏みとどまるべき地点があるのではないか。それは「すべてのことは神によって生きる」という御言葉とどのように向き合っているか、というところで自ずと答えが出て来るはずだ。イエス様はサドカイ派の人たちを、そして私たちを、退屈な頭だけの信仰から「今も生きて働いておられる神」を信じるところに生まれる「生き生きとした信仰」へと招いておられる。

2013年3月10日日曜日

2013年3月10日 説教要旨


「 神にお返しして生きる 」 ルカ20章20節~26節

今朝は皇帝への税金問題の箇所である。一見すると、先週読んだぶどう園のたとえとは全く関係ないように思えるが、実は同じテーマが問題にされている。あなたは神様のものを神様にちゃんとお返しするように生きているか、そのことをイエス様が私たちに問うておられるのである。ユダヤの指導者たちは、イエス様を殺したいと願ったが民衆の支持を受けているイエス様に簡単に手をかけられずにいた。それで彼らは回し者を使って「ローマの皇帝に税金を納めることは、神の律法に適っていることかどうか」と、問うて来た。もし、「ローマ皇帝に税金を納めるな」と答えれば、「あいつはローマ帝国に逆らって反乱を起こそうとしている政治犯だ」と訴えることができる。反対に「ローマ皇帝に税金を収めよ」と答えれば、「あの方こそ、救い主。ローマの支配からイスラエルを解放してくれる方だ」と叫ぶ人々の期待を裏切ることになり、イエス様の評判は一気に落ちる。どっちに転んでもイエス様を追いやることができると考えたのだ。だがイエス様は彼らの企みを見抜いて「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか」。彼らが「皇帝のものです」と言うと「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われた。「デナリオン銀貨を見せなさい」と言われたのは、彼らがデナリオン銀貨をいつも所持していたからだ。そう、彼らはそれを使ってちゃんとローマに税金を納めていたのである。ユダヤ人は生活するためのユダヤの銀貨とローマに税金を納めるためのローマの銀貨と、2種類の銀貨を使っていた。彼らは、自分たちはちゃんと税金を納めておきながら、イエス様にはどうすべきかと問うたのである。明らかに矛盾している。つまり、「皇帝のものは皇帝に返しなさい」という言葉は、いつもあなたがたがしている通りにしなさいという意味の痛烈な皮肉なのである。だが皮肉を言われるだけではなく、すぐにこう付け加えられた。

「神のものは神に返しなさい」・・・。このイエス様の言葉の真意は何であろうか。皆、誰でも税金を払うのは嫌だ。ユダヤ人だけではない。私たち日本人だって税金を払うのをあまり好ましいこととは思わないところがある。だから税金を収めるとは言わないで、税金を取られると表現する。税金は、社会の役に立つと知りながら、どうも金額が大きくなると嫌だなあと思う。なぜなのか。せっかく自分で稼いで、自分のものになっているものを出さなければならないから。しかも献金みたいに喜んで自由にしているのではなく、何パーセントと勝手に決めて持って行かれてしまう。そうなると、自分のものを取られたような気がする。そうやって、稼いだものは皆自分のもの、人になんかやるものかという生き方の根源に大切な問題が潜んでいないか、とイエス様は問われたのである。あなたが、これは自分のものだと思い込んでいるもの、自分のものだと主張してやまないもの、それは本来神様のものなのではないか。本当は、それを神様にお返しするように生きるべきなのではないか、そう問われたのである。神のものとは何か。デナリオン銀貨には皇帝の銘が刻まれていた。それはこれが流通する地域、そこにあるすべてのもの、人は皇帝のものであるとする自己主張。しかし創世記1章26節には、「人は神にかたどって造られた」と記されている。つまり、人間には神の姿が刻まれているのであり、人間は本来、神のものなのだと聖書は言うのである。私たちの命そのものがすでに神様のものとしてあなたに貸し与えられているもの。この世界も、自分の体も才能も、家族や友人、様々な出会いも実はすべて神様のものであって、神様から貸し与えられているものに過ぎない。それらが自分のものであるかのような生き方をしないで、神様にお返しするように生きなさいとイエス様は言われるのである。東日本大震災から2年が経つ。あの被災地で、神のものを神に返す生き方に挑戦しているひとりのキリスト者がいる。「海よ、よみがえれ」と祈りながら、山に木を植える畠山重篤さん。気仙沼で牡蠣の養殖を行っていて、もう70歳を越えておられる。震災で家族を失った。畠山さんは、長く牡蠣養殖を行う中で、海の豊かさは森の豊かさと連動していることに気づく。そして森は海の恋人と称して、植樹の働きをずっと担って来られ。たが大震災によって畠山さんの養殖筏はそのほとんどが津波にさらわれてしまった。一緒に働く人々もその財産の全ても奪われた。ゼロからの再出発。しかし畠山さんは、今まで同様、森の再生から始める。「海よ、よみがえれ」と祈りながら、山に木を植え続けている。回復までどれくらいの時間を要することだろうか。神様が造られた一体化した自然、それを取り戻そうと祈りつつ、地道な作業を続ける。これはまさに神様のものを神様にお返しするという生き方が、どのようなものであるかを示すひとつの生きた証であろう。神様にお返しする生き方にはひとつの特徴がある。それは自分の命の長さをはるかに越えたもっと長期的な働きのために、自分の命を注ぎ込むという特徴である。自分の人生の長さをはるかに越えて進められる神様の御業を見据えて、それに自身を注ぐのである。

2013年3月3日日曜日

2013年3月3日 説教要旨


「 これぞ神の愛 」   ルカ20章9節~19節

今朝のたとえ話は、イエス様が地上のご生涯においてなさった最後のたとえ話である。最後にこういう話を語らねばならなかったことをイエス様はどんなに悲しく思われたことだろうか。このたとえ話はぶどう園を舞台にした物語。イスラエルの民と神様の関係がぶどう園になぞらえて語られている。ぶどう園の主人は神様、ぶどう園で働く農夫たちはイスラエルの民を指している。ある人がぶどう園を造り、そのぶどう園を農夫たちに預けて長い旅に出た。その途中、ぶどうの収穫の季節になったので、その分け前をいただこうと、主人は僕を送った。ところが農夫たちは、送られてきた僕たちを次々と侮辱し、空手で送り返し、最後にはぶどう園の跡取り息子が送られて来たのだが、それをも殺してしまうという内容である。

このたとえで私たちがまず驚くことは、13節でぶどう園の主人が「どうしようか」と考えていることである。最初の僕が空手で帰って来た段階であれば、遣わした僕が良くない言い方でもして、農夫たちを立腹させたのかも知れないと考えることはあろう。だが2人目の僕が手ぶらで戻って来てもまだ「どうしようか」と悩み、そして悩んだ末に愛する息子、ぶどう園の跡取りとなる息子を遣わすのである。一体、何でそんな馬鹿なことをするのだろうか・・・。「それでもなお農夫たちを信頼していたからだ」という以外に理由は見つけられない。この主人が農夫たちを信頼していたということは、最初に農夫たちにぶどう園を任せてしまったきり、主人は収穫のときまで一切口出ししてこなかったということの中にも見られよう。問題はその信頼をいいことに、農夫たちがこのぶどう園を主人の手から奪い取ってしまい、自分たちがこのぶどう園の主人になろうと考えたことなのである。

このたとえ話は、神様とイスラエルの民のことを語っている。ぶどう園とは、神様が造られたこの世界である。イスラエルの民は、神様の喜ばれる収穫をこの世界から刈り取るために働くよう、神様から選ばれた民族だった。しかし彼らは神様に背き続けてしまい、神様は彼らを正そうと次々に預言者と呼ばれる人物を送り込んだ。しかし彼らは預言者たちを殺し、そうやって神様を無視し続けたのである。そして最後に神様は最愛の息子であるイエス・キリストを彼らのところに遣わされた。そして今、彼らはそのイエス様をも殺そうとしている・・・・。このたとえ話はイスラエルの歴史そのものなのである。だが考えてみると、このぶどう園の農夫たちは私たち自身のことでもあるのではないか。私たちも神様からいろいろなものをお借りしているのである。この世界、自分の人生、家族、友人、才能、持ち物、あなたが持つすべてのものは実は神様が私たちにお貸しくださっているもの。私たちはそれをもって、神様の喜ばれる収穫を得て、神様に「あなたからお借りしているものからこんな喜びが収穫できました」と、それを神様に捧げる。それが私たちの人生なのである。けれども私たちはイスラエルの民がしたように、自分が家庭や職場、自分の人生の主人になろうとして、神様からその座を奪い取ろうとしているのではないか・・・。何でも、自分の思い通りになることが大切なのではなく、本当の主人である神様の願い通りになることが大切なのである。子育てで言えば、自分の願い通りに我が子が育つことではなく、神様の願われる通りにこの子が育つことが大事なのである。親はそのことのために、神様から子を預かり、育てるのが役目なのである。そのように、信仰を持つということは自分の人生も、自分のまわりにあるすべてのものも、皆、神様からお借りしているものであって、自分のものではない。自分を喜ばす以上に、神様が喜ばれるような用い方をして行こうと考えるようになる。それが信仰を持つということであり、神様を信じるということなのである。

このたとえ話では、主人は農夫たちを信頼し切っているがゆえに姿を現さない。現代でも「神などいない。迷信だ」と揶揄されてしまうほどに、神様がそのお姿を隠しておられるのは、私たちを信頼しておられるからなのだ。そのことは聖書が主張する大事な信仰だ。農夫たちは主人が姿を現さないのをいいことに、主人を無視し続けた。やがて「戻って来る」(15節)主人を無視し続けたのである。私たちも毎週使徒信条を告白し、イエス様が再びこの地上に戻って来られるとの信仰を言い表している。だが本当に、主がやがて来られ、その主の前に自分は立つのだという真剣さが、自分の生活を造る動機になっているだろうか。主が戻って来られることを無視した生活になってしまってはいないだろうか・・・私たちも問われている。

最後には息子が殺されてしまうという結論まで聞いた人々は、立腹して「そんなことがあってはなりません」(16節)と言った。これは「断じてあってはならない」と訳せる、非常に強い言い方である。たが、そのあってはならないことが、この後起きてしまうのである。私は思う。キリストの十字架は本来あってはならないことだった。それが分からないと、十字架を引き起こした私たちの罪もまた、本来あってはならないことであったという理解が鈍くなり、罪を甘く考えるようになる。だが、その「あってはならないこと」を、私たちの救いのために神様は「なくてはならないこと」に変えてしまわれた。それが十字架の真相なのであり、それはまさに「捨てられた石が隅の親石」となる驚くべき出来事なのだ。

2013年2月24日日曜日

2013年2月24日 説教要旨


「 低きに下る権威 」   ルカ20章1節~8節

ここでの主題は権威である。「権威」と言う言葉に、私たちはあまり良いイメージを持っていないと思う。上の者が下の者を力ずくで言うことを聞かせる、喜びよりも苦しみを与えるもの。そういう悪いイメージが結びついている言葉だ。今朝の箇所でも、悪いイメージの権威が登場してくる。イエス様が神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たち、民の長老が近づいて来て、「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか」と言ったのである。「このようなこと」というのは、イエス様が神殿の境内で信仰について民衆に教えておられたことや神殿の境内で商売をしていた人たちを追い出したことを指す。祭司長や律法学者たちは、「神殿における権威は、この我々が持っているのだぞ。その我々の許可もないのにこんなことをして一体どういうつもりだ」と激したのである。彼らにとって神殿は自分たちの世界だった。自分たちこそが権威者で自分たちの思い通りに支配することができる世界、それが神殿。そういう世界を突き崩そうとする者を絶対に認めるわけにはいかないと彼らは考えていた。

祭司長や律法学者たちは、私たちとは全く異なる人間なのかと言うと、そうではない。私たちも彼らのように、自分が権威者となって支配することができる領域、世界を作って、それを一生懸命確保しようとしているところがあるのではないか。家庭や職場で「この家では皆、私の意見を重んじてくれなければいけない。私の思いに反することを言ったり、やったりするのを私は許さない」、そうやって権威者になっている。そこにイエス様が来られて、「あなたには権威はないのだ。その権威は私が持っているのだ」と主張され始めるとき、まことに迷惑なことだと思ってしまう。でも本当はイエス様があなたの家庭、あなたの職場、あなたの人生を支配される権威をお持ちの方なのである。本来、権威というものは善いものなのである。「権威」と訳される言葉はエクスーシア、エクス・・何々の外に、ウシア・・存在するという言葉から出来ている。存在の外にある。つまり、そこに存在する人、物、それら束縛されないで自由に行動することができる力を意味する。そこから転じて、自分だけでなくて、相手も同じように自由にしてあげる力をも意味するようになった。本来、権威は相手を縛り付けるのではなく、相手を解き放つ、自由にしてあげる力なのであり、善いものなのである。「イエス様が私たちの権威者だ」と言うのは、私たちを縛り付けている色々なもの、絶対にこうでないといけないという自分の思い込みだとか、価値観だとか、そういうものから私たちを解放して、自由に生きられるようにしてくださるということ。私たちはイエス様の権威を認めて受け入れ、その権威にひざをかがめるとき、解き放たれた自由に生きることができるようになるのである。そのように、正しく用いられている権威に服することは、私たちに平安をもたらす。たとえば、私たちが病気になったとき、「あの先生はこの病気の権威だからね」などと言われている先生に手術をしていただけるとなると、その権威のもとで安心して手術を受けられるようになるだろう。手術を受ける前からもう大丈夫だと安心して身を委ねることができる。そして権威を信頼して身を委ねるとき、そこには平安が生まれるのである。同様に、イエス様は私たちの魂の医者として、私たちの病んだ魂を癒してくださる。束縛されて病んでしまっているあなたの魂を解き放つ。今、あなたを束縛しているものは何か。先行きの不安か。それとも健康か。それを自分の力で何とか解決しようとギューッと握り締めていると、反対にあなたがその問題に握り締められてしまって身動きがとれなくなる。イエス様に委ねるのだ。「あなたこそ、私の人生の権威者、支配されるべきお方、どうぞあなたの御心のままに・・・」と言ってイエス様の権威に身を委ねるのだ。そのとき、あなたに平安が訪れるのだ。

 律法学者たちは、イエス様の権威を認めようとしなかった。「洗礼者ヨハネは、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」との問いに答えなかったというのは、イエス様の権威を絶対に認めまいとする心の現われだ。「なるほど、イエス様を認めて受け入れるということは、まことに幸いなことであろう。しかしだからと言って、今の自分のこの生き方を変えようとは思わない。自分の人生の主権者はこの私だ。神様ではない。自分はこの生き方のままで行く。今の生き方を変えないままで神様が私を救ってくれるというのだったら救われてもいい」という態度を私たちは取ってしまう。自分自身が権威を保持しようとすることをやめて、イエス様の権威を認め、それにひざをかがめる決意を新しくしよう。イエス様の権威は、私たちにひざをかがめさせるものであると同時に、ひざまずく私たちを立たせてくださるものでもある。私たちよりももっと低いところに下って、そこから私たちを支え、立ち上がらせてくれる。イエス様の権威とはそういう権威である。24歳で召されたあの青年の生涯はその権威に支えられて生き抜いた慰め深い証である。

2013年2月17日日曜日

2013年2月17日 説教要旨


「 平和への道をわきまえていたら 」 ルカ19章41節~48節

 巡礼者の一団がオリーブ山からエルサレムを目指して進んで行く。その途中、エルサレムの都がその視界に現れたとき歓声があがった。弟子の群れは一斉にほめ歌を歌いだした。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光 」。ルカ2章にはクリスマスの時に天使たちが「いと高きところには栄光、地には平和」と歌ったと書かれている。「地には平和」と天使たちは歌い、弟子たちは「天には平和」と歌った。まるで天と地がイエス様を中心として互いに祝福の歌を歌い、互いに祝福し合っている。素晴らしい光景だ。しかし、その歌声を聴いて焦った人たちもいた。群衆の中に混じっていたファリサイ人だ。オリーブ山からエルサレムへと上る途中に、アントニオの塔と呼ばれるローマ軍の監視塔がある。ローマ軍はユダヤの中心地エルサレムを特に注視していた。この時はユダヤ民族のシンボルとも言うべき、過ぎ越しの祭りが始まろうとしていた。ローマ軍もピリピリしていたに違いない。そこでファリサイ人はこう考えたのである。この歌がローマ軍に聞こえたら大変だ。特に「王」と言って歌っている。クーデターが起こったと勘違いされたら大変だ・・・。ファリサイ人もローマからの独立を切望していたが、弟子たちのようにイエス様によってそれがなされるとは考えていなかった。言わば誤ったクーデター。それに巻き込まれては大変だと思ったのである。それで歌をやめさせるように、イエス様に言ったのだ。だがイエス様は「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」と、それを拒否された。

 イエス様は石についてこうも言われた。「やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである」。実際、この出来事から40年後に起きたローマ軍とヤダヤ人の戦争によって、エルサレムの都、神殿はローマ軍の手によって徹底的に破壊されてしまう。そのことを見通しておられるイエス様は、エルサレムを見つめながら、「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない」と涙を流された。平和への道とは何か。それは、あの歌が歌われている光景だ。イエス様を中心にして天と地が互いに祝福を交し合っている。神がイエス様を通して、人々を赦し、人々を愛し、人々を祝福してくださる。そしてそれを受け止め、人々が神に向けてほめ歌を歌う。天と地との間にそういう絆が生まれている。それがイエス様の言われる平和の姿なのだ。この平和の姿をわきまえなかったエルサレムはイエス様の預言の通りになってしまう。

 エルサレムというのは、町のことを言っているのではなくて、そこに住む人たちのことを指している。神に愛されている者たちということ。それは私たちのことでもある。だから私たちも、この平和の姿を軽んじてしまうとき、その生活はガラガラと音を立てて崩れ始めてしまう。私たちは平和を作ろうとあらゆる努力をする。大きな事で言えば国と国の間で。小さなことで言えば、家庭で、職場で、社会で、平和を作ろうと考え、努力する。しかしそうやって平和を作ろうと努力するとき、私たちはこの歌を歌う平和をいつも考えているだろうか。この歌を抜きにしたところで、平和が作られると誤解しているのではないだろうか。天との結びつき抜きで平和を作れると・・・。

 ファリサイ派も平和を作りたいと考えていた。ローマ軍と折り合いをつけ、歌をやめることで平和が作れると・・・。だが主は言われる。この世とうまく折り合いをつけることで、平和は作れるのか。天と地が祝福し合っている。天と地が強く結ばれている。そこにこそ平和は生まれるのだと・・・。人は誰だって平和を願う。その努力をする。しかし現実には、その努力はかえって平和を遠ざける皮肉な結果を生んでいないだろうか。軍事力を高めれば、相手から攻撃されず、平和を維持できると考える。その考えは本当に平和を生んでいるのか。神様のことを大事にしようとすると、家族や職場の平和が乱れるのではないか、信仰のことは持ち出さない方が平和に過ごせるのではないか・・・。だが平和が生まれるために愛がなくてはならないのだ。その愛が私たちにあるかと問えば、ないことを認めざるを得ない。敵をも愛する愛をお持ちのこの方に、私たちと他者のとの間に立って導いていただかなければ、私たちは平和を作ることはできない。イエス様はその道をわきまえない人々を思い、涙を流される。そのときの人々の生活の様子が45節以下に記されている。神殿では盛んに礼拝が行なわれている。だが、そこに真実の祈りが聞こえて来ないのだ。イエス様が聞きたいと願われた祈り、それはルカ18章9節以下のファリサイ人と徴税人のたとえで示されている。ファリサイ人の祈りの中身は、私は立派にやれています。神の力を必要としないほどに、というもの。反対に徴税人は近づくことも許されないような自分だけれども、どうしてもあなたから離れるわけには行かない。あなたがいなければ生きていけませんというものだった。神抜きでは生きられない、その心に根差す祈りが聞こえないとイエス様は嘆かれる。平和への道は小さくて見えない。だが確かにここにあるのだ。

2013年2月10日日曜日

2013年2月10日 説教要旨


「 神を賛美しつつ生きる 」 ルカ19章28節~40節

今朝の箇所はイエス様がエルサレムの都に入城される箇所である。この出来事は4つの福音書すべてに記されている。影絵作家の藤代清治さんがこの場面を描いておられるが、棕櫚の枝を手にした大群衆がエルサレムの都へ向かって流れるように動いている。「ホサナ」の叫び声が聴こえてきそうな見事な作品である。しかしルカ福音書では、大群集が「ホサナ」と叫びつつ、喜んでイエス様を迎えたというような書き方はしていない。ルカ福音書では、それをしたのは弟子たちであったと語る(37節)。もちろん、群集がその場にいなかったということではない。ルカは群集ではなく弟子たちに焦点を当ててこの出来事を伝えているのである。そこにルカ福音書の際立った特色があり、その特色からメッセージが聞こえてくるのである。他の福音書にはなく、ルカだけが伝えている独特な点は、39節、40節もそうである。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光 」と賛美する弟子たちを叱るように、ファリサイ派の人々がイエス様に求めたのである。イエス様は言い返された。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」と。この言葉はいつくかに解釈されているようだ。ひとつは弟子たちを黙らせれば口をきくはずのない石が弟子たちに代わってこの歌を歌い出すという意味。もうひとつは、この石は神殿を造っている石であって、もし弟子たちの歌を無理やりやめさせようとすれば、エルサレムの都そのものが神殿もろとも、自ら神の裁きを招いて崩れるという意味。いずれにしても、この歌はどうしても歌われなければならない歌なのだ、そうイエス様は言われたのである。弟子たちはこの世にあってこの歌い続けなければならない、いや、歌うように召されているこの歌を。この歌はそういう歌なのである。

 信仰者というのは、神をほめたたえる歌を歌いながら、生きるように召されている。そして、その歌を歌わなくさせようとするあらゆる力とイエス様は戦われる。私たちの教会では、初めて教会に来られた方々の受け皿として聖歌隊が用いられている。そこで願うことは、神を賛美する心を知ってほしいということである。神を賛美する心、それは「弟子たちは、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた」(37節)とあるように、「喜び」、喜びから賛美が生まれる。賛美を生む喜びとは、「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光 」(38節)と弟子たちが歌っているように、天にある平和、すなわち神の支配が行なわれるところに生まれる平安を携えてイエス様がこの地上に来てくださったこと、そこに生まれる喜びである。この喜びがある限り、私たちはどんな状況に置かれても神を賛美することができる。かつて、ある方の葬儀を行なった際、故人愛唱歌として「ああうれし我が身も、主のものとなりけり」という讃美歌を歌った。故人が葬儀でこれを歌うことを望まれていたのである。しかし式後、親戚の方が「葬儀でああうれしいとは何事か」と、憤慨の言葉を口にされた。信仰のない方には全く理解できないことだと思う。しかし、信仰者というのは、どんなに悲しい場面においても、その一番深いところに喜びがある。天にある平安を携えて来てくださったイエス様がその悲しみの只中にも共にいてくださっているという喜びがあるのである。だから、賛美の歌を歌うことができる。

 先週の礼拝で読んだ「ムナのたとえ」、神様から私たちに託された1ムナとは、神の言葉だと理解した。それをもって人々に神様を紹介するのである。だが、この1ムナを「神を賛美する心」と、とらえることもできるだろう。私たちはいかなるときにも、神を賛美する姿を通して、「共におられる主」を人々に紹介することができる。教会は、この賛美する心を失ってはならないし、この世で歌い続けるように召されているのだ。イエス様もその歌が歌われ続けるようにと、それを妨げようとするあらゆる力と闘ってくださる。弟子たちはほめ歌を歌いながら、自分たちの見たあらゆる奇跡を思い出して喜んでいた。直前の「ろばの子を調達」で経験した奇跡もそのひとつだろう。驚くべき「神の支配」がここに来ている。それをもたらす方が私たちと共におられる。その喜びが弟子たちの賛美を生む。だが、この5日後には弟子たちは賛美するどころか、息を殺して音も立てないようにして身を隠す。イエス様が十字架につけられて殺されてしまうから。上り調子にいた弟子たちは、一気に下り調子に反転し、賛美の声を失う。だが・・・カルバリの丘に天から打ち付けられた1本の十字架は、その最も暗黒な中にも神の支配が貫かれていることを証するものであったことを悟った弟子たちは、それ以降、賛美する姿勢を失わなかった。ルカ福音書は、その最後を「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」という言葉で結んでいる。私たちを取り巻くこの世の現実は、この賛美の言葉を私たちから奪おうとする。だが、そこにも神の支配が貫かれていると信じて忍耐しつつ、賛美の歌を歌い続ける私たちを神様は必ず勝利へと導いてくださる。あなたは今、どのような状況に置かれているだろうか。イエス様は天にある平和を携えて、あなたのその状況にも来てくださっている。賛美を歌わせてくださる。 

2013年2月3日日曜日

2013年2月3日 説教要旨


「 あなたに与えられている宝 」 ルカ19章11節~27節

ムナのたとえと呼ばれる、イエス様がなさったたとえ話を読む。これはタラントンのたとえ話によく似ている。主人が僕たちにタラント、あるいはムナを託して旅に出る。そして戻って来たときに清算が行なわれる。そのとき、託された物を用いた人と用いなかった人とがいることが明らかになる。双方のたとえ共に、同じストーリー展開を持っている。だが違う点もある。タラントンのたとえと違い、ムナのたとえでは皆、同じ1ムナを授けられている。皆、同じものが与えられている・・・果たして、この1ムナとは何を意味しているのだろうか。教会は伝統的にこれを神の言葉だと理解してきた。私たちには、神の言葉という宝が与えられている。私たちもこの理解に立って、このたとえ話を読んでみたいと思う。

 このたとえ話で私たちの関心を引くのは1ムナを布に包んでしまっておいた僕であろう。どうして彼は1ムナをしまいこんでいたのか。主人から「これで商売をしなさい」と言われていたにもかかわらず・・・。ひとつの理由は明確で、主人が怖かったからである(21節)。商売に行って、失敗して怒られることを恐れた。だからしまいこんだのである。しかしある人はこうも言う。彼は主人だけでなくて、世を恐れたのであると・・・。「しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた」(14節)。彼というのはこの主人。この主人は国民から憎まれていた。この僕たちは国民から憎まれていた主人の僕たちなのである。つまり、商売がやりにくいのである。「あの主人の僕たちか」と、名前を聞いただけで意味もなく憎まれる。商売としてこんなにやりにくいことはない。この僕はそれを恐れて、1ムナをしまいこんだままにしてしまった。

その気持ちは私たちにもよく分かると思う。イエス様は僕たちに、つまり教会に神の言葉を宣べ伝えるようにとの使命を与えて行かれた。ご自分が王になって再び帰って来るその日まで、教会は神の言葉を宣べ伝えながらイエス様の帰りを待っている僕。しかしすぐに体験するのは、神の言葉が鼻で笑われるということである。イエス・キリスト・・・私たちの主人の名前を聞いただけで何の根拠もなく、鼻で笑われる。そういう体験を一度でもすると、私たちもこの僕のように1ムナを包んでしまっておきたくなるのではないか。自分さえ、神の言葉を聞いていればそれでいいのではないか。自分さえ、潤っていればそれでいいのではないか・・・と。

 ある人は家族への伝道のために、教会から持ち帰ったプリントをしまわないで、家族の目につくところに置いておくのだと言う。すると家族はそれを手にとって読んでいることがあると言う。それもひとつの地道な伝道である。大切なことは、神の言葉を「しまっておかない」と言うこと。

 不思議なことに、このたとえ話には商売に行って失敗した人は登場しない。それは、彼らの力によって伝道されるのではなく、神の言葉自身が持つ力、それによって伝道がなされるものだからだ。「御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました 」と僕たちは言う。「あなたの1ムナ」なのであって「私の力で」ではないのである。

 「あなたの1ムナ」が力を持っている。それが伝道の急所なのである。伝道は、私たちがその力を信頼して、(商売を)やってみることなのだ。

 神学生時代、四日市にある小さな伝道所に伝道実習に派遣された。因習が強く、キリスト教に対して極めて閉鎖的な地域であった。都会では経験しないようなことを多く経験した。神の言葉が届いていかない・・・伝道の困難さにひどく落胆してしまった。だが実習が終わる日の前夜、伝道所の母教会の牧師が私たちを夕食に招いてくれた。夕食のあと、四日市の夜景を一望できるところに私たちは連れて行かれ、こういうことを聞かされた。私たち夫婦も開拓伝道に来たときには本当に参ってしまった。ここじゃ、伝道できないなと何度も挫折しかかった。そのとき、聖書の言葉がくじけそうな私たちを勇気付けてくれた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」(使徒言行録18章9節、10節)。この町にも神様がご用意されている神の民がいる。だから自分たちはただ神の言葉を提示すればいい。そうすれば、必ずそれに反応する人がいる。神の民となるべき人は、神の言葉を聞いたら必ず反応するから。自分たちは神の言葉を高く掲げて、それによってその人たちを呼び出せばいいだけなのだ・・・。その母教会は伝道困難な地域であるにもかかわらず、多くの人が集う教会になっていた。神の言葉それ自体に、救われるべき者を呼び覚ます力がある。そう信じたとき、この地域で伝道することが、むしろ楽しみになったとその牧師は言った。忘れられない言葉だった。

 僕は、主人は蒔かないところからも刈り取る厳しい方だと思っていた。だがそれは違う。この主人は、ご自分を蒔いてくださった方なのだ。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12章24節)。ご自分を憎み、鼻で笑うような人々のために十字架にかかって、ご自分をこの人たちのただ中に蒔いてくださった。私たちが伝道する世は、主がすでにご自分を蒔いてくださった世。不毛の土地であるはずがない。

2013年1月27日日曜日

2013年1月27日 説教要旨


「 主はあなたを捜される 」 ルカ19章1節~10節

 今朝は、ザアカイという人がイエス様と出会ったという出来事を読む。この出会いの出来事は、イエス様のこういう言葉で締めくくられている。「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(10節)。つまり、このザアカイという人は「失われたもの」であったと言うのである。この「失われた」と訳されている言葉は、ルカ15章の「見失った羊のたとえ」で、「見失った」と訳されている言葉と同じである。100匹の羊を持っていた羊飼い、そのうちの1匹が群れから離れてしまい、迷子になってしまった。羊にとっては、命の支えとも言うべき羊飼いがいない状態、仲間の羊もいない、1匹だけで無防備に放り出されてしまっている状態。ザアカイはまさにそういう状態にいたのだとイエス様は言われたのである。しかし聖書には、彼は「徴税人の頭で金持ちであった」と記されていて、一般的に言うならば、彼は出世をして金持ちになり、言わば成功者としての姿をまとっていたのである。そのように、聖書が言うところの「失われている状態」というのは、誰が見ても「ああ、この人は確かに失われた状態にある人だ」とは分からない。だがその人の隠されている本当の姿を見抜く目をイエス様は持っておられ、その目で鋭くご覧になったところで、「この人は失われている羊だ。わたしは何としてもこの人を捜して、連れ戻さなければならない」と、1匹の羊をとことん追い求める羊飼いの心をもって、捜し求められるお方なのである。ここにいる私たちも、そのイエス・キリストの目に捜し出されて、ここにいる者となったのである。

 ところで、ザアカイ本人は自分が失われている状態にいるという自覚を持っていたのだろうか。彼は徴税人の頭であった。徴税人というのは、読んでの字のごとく、人々から税金を取り立てる人である。徴税人たちは、ローマ帝国の権力をバックに民から不法な取立てをし、私服を肥やすようなことをしていた。その上、信仰深いユダヤたちから見れば、自分たちの国を占領しているローマの手下として働いているわけで、いつまでもローマの植民地支配が続くように協力している、極めてけしからない人間、「神への信仰をも捨てた人間」と見られていた。そのように徴税人は人々から忌み嫌われる存在であった。ザアカイはそういう自分を「失われた状態にあるのだ」とは表現しなかったと思うが、自分は神からも他の人からも孤立してしまっている孤独な状態にいるのだということは、自覚していたであろう。なぜ、ザアカイがそんな嫌われ役の仕事に就いたのか、その理由を聖書は伝えていない。私の小さな経験からすると、人にひどく侮辱されて育って人間は、いつか人を見返してやろうと思うものなのである。そして出世して偉くなることが、その手っ取り早い方法だと考えるのである。もしかしたら、ザアカイも人々を見返すために、徴税人という仕事を選んだのかも知れない。しかし実際に徴税人になってはみたものの、その現実は彼が思い描いていたものとはずいぶん違ったものだったのではないかと思う。ザアカイの心の中には「俺の人生、こんなはずじゃなかった。今のままの自分では嫌だ。新しい自分になりたい・・・」。そういう思いがあったのではないか。だからこそ、ザアカイはそのまま徴税人としての人生を脇目も振らずに突き進むのではなく、イエス様に強い関心を持ったのであろう。イエスという方がこの町に近づいているらしい。噂によると、この人は自分のことを神と等しい者であると公言し、それでいて、自分のような徴税人たちをも、まるで親友のように接して一緒に食事までしてくれるという。一体、この人は本当に神なのだろうか。そして、この自分にも親しく接してくださるのであろうか。もしそうであるならば、この人生を新しいものに変えることができるかも知れない・・・ザアカイはそう考えた。

どうしてもイエスという方を見たい。背が低く、群集にさえぎられて見ることができなかったザアカイは木に登った。ザアカイに好意を示して、場所を譲ってくれる人はいなかったのである。ザアカイは、イエス様を見たかった(原文は、見ることを求めた、となっている)。イエス様もいなくなった1匹の羊を捜し求める羊飼いのように、ザアカイを捜しておられた。このエリコの町の中で最も失われた状態にある彼を。その両者の「捜す」が交わる一点、それが5節の「その場所に来ると」という「その場所」であった。その場所は、ザアカイが木に登っている場所、ザアカイの心の中にある思いが見える形となって現れ出た場所。本当のザアカイの姿がそのまま映し出されている場所。それが、イエス様とザアカイが出会った「その場所」である。人は誰でも、こんな惨めな自分、こんなに情けない自分、そんな姿をさらしたら、誰からも受け入れてもらえないだろうという自分を隠して生きている。だがイエス様はそういうありのままの姿のザアカイと出会い、その彼を赦し、愛される。今までの彼の人生すべてを贖ってくださる方。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。ザアカイは思った。「なぜ、木の上にいることが分かったのか。そうだ。自分は捜していたつもりが、実は捜されていたのだ。この方に」。ザアカイはこの出会いを契機に新しい歩みを始める。神と共に、そして真の仲間と共に生きるための歩みを。ザアカイはそのための闘いに一歩踏み出した。それは私たちひとりひとりの経験である。

2013年1月20日日曜日

2013年1月20日 説教要旨


 「 開かれた目が見るもの 」 ルカ18章31節~43節

 今朝は、ルカ18章31節から43節までを読む。2つの出来事が記されている。イエス様がエルサレムで十字架につけられて死ぬという3度目の予告をされたのだが、弟子たちには理解できなかった。それは信仰の目が開かれていなかったからというのが前半の出来事。後半はエルサレムに向かう途中、エリコの町の近くで、ひとりの盲人がイエス様によってその目を開かれるという事が起きたということ。2つの出来事を共通して、私たちが深く考えさせられることは、「見えるとは何か」ということだと思う。41節で、この盲人がイエス様から「何をしてほしいのか」と尋ねられて、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言っている。見えるようになりたいというのは、この盲人だけでなく、すべての人が持っている願いではないか。ある人は、先行きの見えない今の時代にあって、少しでも先を見通すことができるような目を持ちたいと願うだろう。またある人は、人の悲しみ、心の叫び、そういうものを見ることができる感性豊かな心の目を持ちたいと願うかも知れない。

 私たちは、「このことを見る目を持つことができたら」と、それぞれに願いを持っている。そういう私たちに今朝の聖書の物語は、「あなたが本当に見えるようになりたいと願っていることは何か。それは本当にあなたの願いとすべきことなのか。そしてそれが見えるということはあなたにとって何を意味するのか」と、問いかけているように思う。道端に座って物乞いをしていた盲人は、自分の目の前で何が起きているのか、分からなかった。騒々しい物音に何かが起きているということは感じていた。そこで道行く人に尋ねると「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせてくれた。すると彼は「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び始めたという。ダビデの子という言い方は、当時のユダヤの人たちが期待して待ち続けていた『救い主』を指す呼び名。つまりこの盲人は、このイエスという方こそ、救い主であると信じたのである。イエス様のことについて、いろいろ噂を聞いていたのだろう。そして彼なりに、このイエスという方こそ救い主だと信じた。つまり、盲人の信仰の目は救い主のことが見えていたのである。一方、この盲人を叱りつけて黙らせようとした人々がいる。彼らは「こんな物乞いの盲人、救い主も相手にするはずない」と思った。つまり、救い主がどういう方であるか、見えていなかったのである。考えさせられることだと思う。この人たちだって、救い主を見たいと考えていたはず。でも見えていなかった。人って結局、自分の見たいようにしか見ていないのだと思う。目を開けて見ているつもりでも、「自分はこう見たい」という枠を作っていて、その枠を通して見るものだから、本当に見るべきものを見ることができない。親が愛する我が子の顔を見ているつもりでも、その子が今、何を悩んでいるか、全然見えていないということがある。「我が子はこうあってほしい」という親の願望がひとつの枠になって、目の前の子どもの現実が見えなくなってしまうのだ。人は自分にとって都合のいいものの見方しかしない。自分に都合のいい枠を作って、その枠を通してしか見ないし、それで見えたものがすべてだと思い込む。悲しいけれども、それが私たちの現実ではないか。でもそうやって自分で見たいものだけを見ていて何になるのだろうか。本当は、自分の理想とか願望とか、そう言う「枠」を越えたところに、神様の恵みの世界は開けてくるのではないか。自分の願望、理想がもう打ち砕かれてしまって、ただひたすらに「わたしを憐れんでください」としか言いようがない。そういうところで、今まで知らなかったほどの神様の大きな恵みが用意されていたことに気がつく。実は、それが神様の福音の真理なのである。だからこそ、今朝、私たちはこの盲人のように、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と、叫び声を上げるべきではないかと思う。この盲人は、見えるようになりたいとイエス様に願った結果、目を開いていただき、さらに大いなる事実に目が開かれていく。見えるようになった盲人は「神をほめたたえながら、イエスに従った」(43節)。

 その先、エルサレムの都で彼の開かれた目が見たものは、自分が「ダビデの子」と呼んだイエス様が、十字架につけられて殺される場面であった。自分が「ダビデの子よ。わたしを憐れんでください」と叫んだその叫びよりも、もっと激しくもっと深く「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、叫び続けるダビデの子の姿を見たのだ。のちに彼は、十字架につけられたダビデの子の姿の中に、「こんなにも自分は神様に愛されているのだ」という事実を見たに違いない。神様がその大切な独り子をこの私の罪の身代わりとして与えられたほど、自分は神に愛されている。その事実を救い主の十字架のうちに見た。他の何が見えなくたって、自分がこんなにも神様に愛されているのだという事実を見ることができる目を持っている人が一番、幸せな人なのではないか。もし、その目を持っているならば、たとえ肉体の目が見えなくても、癒されない病を抱えていても、困難な人生を歩かされていたとしても、その人は一番堅固な支えを持っている。いかなる人生の嵐にも耐えうる支えだ。盲学校の生徒たちが「とんぼのめがねの歌」を元気に歌ったように、見るべきものを見ている心の目、信仰の目があるなら、私たちはすでに幸いな者とされているのである。  

2013年1月13日日曜日

2013年1月13日 説教要旨


 神の国の論理 」 ルカ18章15節~30節

金持ちの議員の物語は、マタイ、マルコ、ルカ、3つの福音書に記されている。主の伝えられた福音がどういうものかを伝えるのに、とても大切な出来事であったと、福音書著者たちは思ったのだろう。だがそれぞれに、その伝えるところが少しずつ異なっていて、登場人物に関して言えば、ルカは金持ちの議員、マタイは金持ちの青年、マルコはただ金持ちと書いている。それらのことを総合すると、この人はお金持ちの青年で、かつ議員でもあったということになる。議員として選ばれるほどに才能豊かで、人々からも信頼され、多くの財産も持っていた人物なのだ。しかも彼は、小さい頃から神の戒めをきちんと守ってきた。非難の余地がない人物、世の中の多くの親は、自分の子どもがこういう青年であってほしいと思うのではないだろうか。だがそんな彼が満足できていない。不思議なことである。彼は、永遠の命への欲求を持っていたという。それは、神が人間をお造りになられたとき、永遠を思う心をお与えになられたからである(コヘレトの言葉3章11節)。この永遠を思う心は、普段はいろいろな欲が茨のように覆いかぶさって、永遠を思う心が表に現れないようになっている。だが死に直面したり、ふとしたときに、永遠を思う心が顔を覗かせるのである。彼は、神が人に与えられた永遠を思う心に突き動かされて、永遠の命をどうしたら受け継ぐことができるか、永遠の命という救いを手に入れるためには、どうしたらいいのかと、主のところに訪ねて来たのである。

そこでイエス様ははっきりと、「あなたは自分で自分を救えない。神様があなたを助け、あなたを救うのだ」と教えられたのである。この人は「何をすれば救われるのか」と尋ねたが、イエス様は「何をするかだと?あなたが何をしても救われない。救うのは神である 」、そうお答えになられた。それが今朝の聖書の内容。イエス様は「掟は守ってきました」と胸を張るこの人に、「あなたは自分で自分を救おうというのか、そんな自分を手放しなさい。すべてを捨てて、神の救いにこそ信頼して私に従え」と命じられたのである。「あなたは自分で自分を救うことはできない 」・・・これが、この人には分からなかった。だから、彼は非常に悲しんだ。「大変な金持ちだったからである」とあるが、財産とはつまり、それで自分を救おうとするもののこと、すべてなのである。それがお金なのか、健康なのか、知識や何らかの業績なのか、ともかく自分で自分を救おうとかき集めて、すがりつくもの・・・財産はそれを象徴しているのだ。そうとあれば、当然、財産をたくさん持っていれば、いるほど、救いが見えなくなる。財産があるというのは、そういうことなのである。

 イエス様は、そのことを分からせるために、彼にひとつのことを求められた。持っている財産をすべて売り、貧しい人たちに分け与えよと。もちろん、そういう善行を積めば、救われると言っておられるのではない。このあと、弟子たちが「この通り、私たちは自分の持ち物を捨ててあなたに従っています」と言っているが、その弟子たちが「それでは、誰が救われるのだろうか」と言っているではないか。それは正しい問いなのだ。持ち物をすべて手放すという善行が、あなたにはまだ足りないと主は言われたのではない。この人にはまだ足りないことがある。それは、貧しい隣人なのである。彼の持っているものを分かち与えられることによって祝福に与るようになる隣人が足りないのだ。それらの隣人と同じところに立って生き始めるとき、彼は本当に救いのために必要なものが何であるかを、知るようになるのだ。おそらく、この青年から分けてもらう必要のある貧しい人たちは、救いのために本当に必要なものを持っていたであろう。それは、神様に寄り頼む姿勢である。人の助けがなければ生きられなかった彼らは、まず、人に頼む以前に神様に頼む。「神様、どうぞ、あなたが働いて、今日、私たちに必要なものを与えてくださる人を送ってください」と・・・。彼らは何も持っていないが、ただひとつ持っているもの、それは、この青年が持っていなかった「神に寄り頼む」という姿勢である。

 この物語は、3つの福音書にすべて記されている。それぞれに少しずつ、異なる伝えられ方がしているのだが、3つの福音書に共通することがひとつある。それはこの物語が、イエス様が子どもを祝福するという出来事としっかり結びついて伝えられていることだ。この物語は、イエス様が子どもを祝福された記事と切り離して、読むことは許されない。もし、そのように読むと、イエス様の伝える福音が何であるかを聴き損なう危険が生まれる。そういうことであろうと思う。乳飲子はイエス様の祝福を受けたが、何か善きことをしたわけではない。ただ、一方的にイエス様から恵みを受けただけだ。この出来事は、救いにおける神と人間の関係を究極的に現わしている。私たち人間が神から救いを受けるのは、ただ神の恵みによる。人に求められるのは、それを感謝して受ける姿勢だけである。イエス様に従って行くとき、その妨げとなり得るものがたくさんある。財産はそのひとつかも知れない。これだけは手放せない。これを手放したら生きていけないと・・・しがみつくものがあるのではないか。だが、神様があなたをしっかりと捕らえてくださっているから、もうそれらのものを手放しても大丈夫である。あの木登り体験のように。人には不可能なことを、神様があなたにしてくださるのだから。

2013年1月6日日曜日

2013年1月6日 説教要旨


「 神様と出会う 」 コヘレトの言葉12章1節~14節

 日本人の平均寿命は世界でトップである。これは一面喜ばしいことだか、半面、高齢化社会をどう生きたらいいのか、という戸惑いも与えている。日本には、高齢化社会をどう生きたらいいのか、そのモデルがないから。なぜなら、高齢化社会というのは世界の歴史においても、今までに例がないから。高齢化社会はここ数10年の間に、急速な医療技術の進歩と経済の発展によって、もたらされたものだからである。高齢化社会をどう生きたらいいのか、その問題を一層、難しくしているのは、私たちが歩んできた高度経済成長期に日本社会に植えつけられた価値観である。高い能力を身につけ、それによって効果をあげ、評価されるという、言わば『能力主義』の価値観は、体力や記憶力などが衰えてしまった高齢の人たちを、もはや自分は生きる価値を失ったのだと、生きる意味を見出せないように縛ってしまっている。この問題の解決の鍵は、高度経済成長期を支えてきた価値観に代わる、全く『別の価値観』を私たちが持つことができるか、ということであろう。これは、日本社会全体の課題であり、ここにいる私たちひとりひとりの課題である。そのことを踏まえ、成瀬教会は2013年の主題聖句をコヘレトの言葉第12章1節とした。

 「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに」(1節)。「青春の日々にこそ」と言われているが、新共同訳聖書は、極めて残念な翻訳になってしまったと思う。他の日本語訳聖書は、「あなたの若い日に」と、原文ヘブライ語に忠実に訳している。「青春の日々」と訳してしまうと、10代、20代のうちに、ということになってしまう。だが、「あなたの若い日」と言うのであれば、いくら年を重ねても、今年のあなたは来年のあなたよりも若いと言えるし、今日のあなたは、明日のあなたよりも若いと言うことができる。つまり、「あなたの若い日に」という言葉は、「今」という機会を逃してはならない、という意味が込められていると理解することができるのである。おそらくコヘレトの言葉が強調したいのはその点であろう。「あなたの若い日に、お前の創造主に心を留めよ」。これは、創造主なる神様を心に留めることができる機会を逃すなと、若者だけでなく、高齢の人たちにも含む、すべての人たちに向けて語られている言葉なのである。

コヘレトの言葉はこの12章において、人間の「老いと死」について語る。それは、あたかも私たちの前に、めいめいの姿を映し出す鏡を立てかけるようなことである。その鏡には、これから私たちがどのようになって行くかを映し出されている。その鏡の中をのぞくことは、真に厳しい思いがする。だから、コヘレトはそれをあからさまに語ることをしないで、婉曲に(えんきょく)に描写する。コヘレトの思いやりなのだろう。3節から7節は、私たちの体の各器官、腕や手、足腰、歯、耳、目、声の衰えていく様子や、階段や坂を怖れるになることを語っている。3節から7節をそういう目で読み直してみると、比喩の内容が理解できるはずだ。それほど難しくはない。そういう厳しい現実を描写しながら、コヘレトの言葉は、そういう日が来ないうちにあなたの創造主を心に留めよと呼びかける(1節)。あなたの若い日、「今」という機会を生かして、造り主を覚えなさい。体の各器官が衰える、その日が来る前に、体のすべてを生かして、あなたの創造主を心に留めなさい、造り主と日々、出会うということを大切にしなさいと・・・。歯が抜け落ちないうちに神が与えてくださる食べ物を感謝して食べなさい。神が祝福をもって作られた世界を、祈りの目をもってしかと見よ。声があるうちに神を讃美しなさい。目の機能があるうちに聖書を読みなさい。歩けるうちに信仰者の集いに集いなさいと・・・。

「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに」(1節)。年を重ねることに喜びはないと、多くの日本の高齢者の方々が思っているだろう。それは誰もが感じる確かな現実である。そして、その思いに対抗するには、お前の創造主を覚える喜びを知るしかないのだと、コヘレトの言葉は語る。神様と出会う喜びを知る以外にはないと。これは永遠の視点に立つ新しい価値観だ。ベテスダ奉仕女と呼ばれる人たちは、その生涯を奉仕に捧げ、年を取り引退すると、1ヶ所に集まって暮らす。その生活の日々を彼女たちは、「婚礼前夜」と呼ぶ。奉仕から離れた悲しみではなく、神様と顔と顔とを合わせてお会いするその時が近づいているという「期待」に胸を膨らませて過ごすのだ。老齢期は、神様と顔と顔とを合わせてお会いするという私たちの人生の究極のゴールに向けて、その期待を膨らませて過ごす時だ。その期待は、日々、聖書を通してまだ目で見ることが出来ない神様と出会う経験を重ねて行くことで、高められて行く。今年、私たちの教会は聖書日課を発行する。神様と日々出会う経験の一助となることを願って・・・。年を取り、何も分からなくなると、自分ではもう神様を覚えることすらできなくなってしまうことを恐れるかも知れない。だが、いなくなった放蕩息子を毎日覚え、彼の姿をとらえようと来る日も来る日も、遠く眺めていたあの父親のように、神様はご自分の方で私たちのことを覚えていてくださる方だ。だから安心していい。

2012年12月30日日曜日

2012年12月30日 説教要旨


「 神の憐れみが届く所 」 ルカ18章9節~14節

今年最後の礼拝、一年の終わりの時期というのは、一年を振り返って恵みを数えたり、あるいは至らなかったことを悔い改めたりする時を持つもの。今朝、私たちに与えられている聖書の言葉は、そういう私たちに自己吟味の助けとなるような箇所だと思う。この話は「たとえ」と言われているが、とても作り話とは思えない。ノンフィクションでも見ているかのように、私たち人間の姿を克明に見せてくれているたとえ話である。

 2人の礼拝者の姿が語られている。ひとりは、ファリサイ派の人間。彼は「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」を代表する人物として登場している。彼は、「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と言っているが、これは当時の規定以上のことであって、彼の信仰の熱心さを証するものである。しかしその彼が、礼拝後、神に義とされて家に帰ることはできなかったと言うのである。「義とされる」というのは、正義感があるとか、道徳的な意味で正しいということではなくて、神と正しい関係にあるという事。このファリサイ人は「あなたは私と正しい関わりにある」と、神に言っていただけなかったのである。それはなぜだろうか。

その理由は、彼の祈りの中に明確に現れている。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」という彼の祈りには、神に何かを求めるという姿勢はない。徴税人のように赦しを求めることもないし、何か自分の欠けているものを満たしてくださいというものもない。むしろ、自分の立派さを主張しているだけで、神様に何かをしていただかなくても、自分は十分にやっていけますという誇りに満ちた姿勢でしかない。彼は「感謝します」と言っているが、神を頼らなくても自分の力でやっていける、そういうところでなお語られる感謝の言葉は、何と空しい言葉であろうか。イエス様は、このファリサイ人を自分は正しい人間だとうぬぼれていると言っておられるが、「うぬぼれて」は、原文はギリシャ語は「信頼する」という意味もあり、マタイ27章43節ではそのように訳されている。このファリサイ人は自分の正しさに信頼しているのである。あの十字架の上で人々からの嘲りを受けながら、なおも神に信頼したイエス様の信頼と同じような信頼を自分自身に対して抱いているのである。言い換えると、神を必要としないということ。神を必要としないほどに、自分の正しさを、自分の力を信頼しているのである。ファリサイ人の祈りには、神のお姿が一向に見えてこない。徴税人の祈りでは、罪人を憐れむ神のお姿が段々と大きくなってくるのだが、ファリサイ人の祈りには神のお姿が見えてこない。私たち人間は、真に神が見えなくなる時、隣人のみが見えるようになる。その隣人が大きく見えれば劣等感になるし、小さく見えれば優越感になる。神なしに隣人を見ると、必ず、この2つのどちらかになる。彼は他人を見下した。他者を見下すというのは、神から与えられたに過ぎないものを、その源から引き離して、自分の所有物にしてしまい、神の力と助けによってのみ可能となったことを自分の功績にしてしまうことから生まれる。ただ神様の恵みのゆえに可能となるような信仰の歩みだということを真剣に受け止めているならば、それが他者を見下す材料となることはない。私たちは何と、この過ちを犯してしまうことだろうか。自分の努力で勝ち取ったものも、本当は神に与えられた才能があってこそ、実を結べるものでしかないのに。それなのに、いつの間にかそれを自分の功績と考え、他者を見下す材料としてしまうなんて。ファリサイ人の立派な信仰生活だって、神の賜物があってこそ初めて可能となるものだったのに・・・。

一方の徴税人は、「遠く離れて」立っていた。ファリサイ人の立つ位置までは来られないのだ。この人は、普通の人がするように自分はできないと思っている。ファリサイ人のように、胸を張って祈ることなど、当然できない。むしろ反対に胸を打ちたたく。だからと言って、神から完全に離れてしまうこともできないのである。遠く離れていても、自分は目を天に向けることができなくても、神には目を向けていただきたいと思っている。神の方で自分の祈りに耳を傾けてくださるなら、神が私を赦してくださることも起きるのではないか。いや、神が自分を赦してくださらなかったら、一体自分は何を頼りに生きていけるのか。そういう思いで神の憐れみにすがっている。彼は・・・神に義とされて帰って行った。自らの弱さを知る謙遜な教会でありたい。ファリサイ人たちのように、自分たちは立派で、あとの人たちは駄目だ、みたいな教会に誰が来るであろうか。むしろ、この徴税人のように、神の御前に胸を打ち叩くことを知っている教会でありたい。それほど弱く、貧しい存在なのに、しかし神はそれを憐れんで救ってくださる。そう信じているところに人は集まるもの。自分も弱くても大丈夫だと思えるから・・・・。 

2012年12月23日日曜日

2012年12月23日 説教要旨


「 御子の生まれし所 」 マタイ2章13節~23節

主がお生まれになった家畜小屋は、ベツレヘムという町にあった。都エルサレムから南に8キロほど下ったところにある町。その名前は、ヘブライ語で「パンの家」という意味である。「わたしはいのちのパンである」と言われた主の言葉を思い起こす。パンの家とはメルヘンチックな感じがするが、ベツレヘムはその名前とは裏腹に数多くの悲しみを見続けてきた町なのである。創世記第35章16節以下、ヤコブの最愛の妻ラケルの出産の場面である。ラケルは自らの命と引き換えに、我が子を出産しようとしていた。ラケルは最初の子、ヨセフを産んだとき、「主がわたしにもう一人男の子を加えてくださるように」と願った。その願いがかなえられようとしている今、ラケルの命は取り去られようとしているのだ。神様の聖なるご意志とは言え、ラケルはこの現実を受け入れることができなかった。ラケルは最後の息を引き取ろうとするときに、我が子にベン・オニ・・・わたしの苦しみの子と命名しようとした。我が子が生涯、若くして死んだ母を記念して、悲しみの中にたたずんで生きるようにとの願いをその名前に込めようとしたのだ。しかし夫ヤコブは、我が子が生涯、この名を引きずって歩むことを望まず、ベニ・ヤミン、幸いの子と命名した。ヤコブは生まれたばかりの我が子が、悲しみの方向に生きるのではなく、幸いの方向に生きることを願ったのである。こうしてラケルの遺体は、エフラタ(今日のベツレヘム)に向かう道の傍らに葬られた。ベツレヘムは、ラケルが我が子と一緒に到達することができなかった、母ラケルの悲しみが注がれた町なのである。

それから何百年も後、預言者エレミヤの時代、ユダヤの国がバビロンという国に滅ぼされ、ユダヤの民は捕囚となって、バビロンに連れ去られて行ってしまう。そのとき、再びベツレヘムは母親たちの悲しみの町となった。「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる。苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む。息子たちはもういないのだから」(エレミヤ書31章15節)。イスラエルの民が捕虜としてバビロンに連れて行かれるときに、ベツレヘムは集結を命じられた町となった。バビロンは自国に有益と判断された者たちをこぞって捕虜として連れて行った。やはり、若い人たちが多かった。彼らはベツレヘムの地に集められ、そこから異郷の地バビロンへと連れて行かれた。捕虜となってベツレヘムを出発して行く息子たちの姿を見て、母親たちは耐え切れずに涙を流した。愛する我が子を取り去られた母の悲しみを、預言者エレミヤはあのラケルの悲しみに重ねたのだ。ベツレヘムは、捕囚に連れて行かれる我が子を悲しむ母親たちの悲しみの涙が流された町となった。

それからさらに600年、再びベツレヘムに悲劇が起こった。ユダヤの王ヘロデの命令により、ベツレヘムとその周辺一帯にいた幼児の大虐殺が行われたのである。ヘロデは、ベツレヘムで王としてお生まれになった御子を、自分の王位を奪う者として、そのまま生かしておくわけには行かないと思った。しかし東方の学者たちは御子を拝んだあと、ヘロデのところに戻らなかった。そのため王として生まれた赤子がどの子なのか、確定することができず、結局ヘロデはベツレヘムとその周辺の町々に住む赤子と幼児までも殺してしまったのである。愛する我が子が理由もなく殺され、悲しむ母親たちの叫びが再びこの町に響いた。ラケルの墓の前で再び悲劇が起きたのだ。マタイはラケルの悲しみと重ね合わせて、あのエレミヤの預言の言葉を引用している。このように、ベツレヘムは多くの母親たちの涙が流されてきた地。愛する我が子との間を無理やり引き裂かれるという悲劇が繰り返された地なのである。どうすることもできない歴史の現実、不条理・・・それらを引き起こす人間の罪という現実の前で、無力の涙が流された地である。しかしそのベツレヘムの地に救い主イエスはお生まれになられた。それは、母の悲しみの現実を生んだ人間の罪のただ中に、イエス様は生まれて来られたということなのである。ヘロデによる幼児虐殺の出来事を読んで、イエス様がベツレヘムに生まれたばっかりにこんなことが起きてしまったのだと思うかも知れないが、ヘロデのような人間が王として君臨していることこそが問題なのである。世の中には、そのような不条理なことがたくさんある。「何で・・・」と言いたくなることが一杯ある。主はその悲しみのただ中に入って来られた。私たちの悲しみの中に共に立つためである。

考えてみると、主のご生涯は、罪の痛みと不条理の中に立ち続けるご生涯であった。神の御子であるのに家畜小屋に生まれ、愛に生きたにもかかわらず、指導者たちからは排斥され、その行き着いた先は十字架であった。十字架上での最後の言葉、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉は、主が最後まで人間の罪と不条理の中に立たち続けられたことを示している。しかし、その叫びに父なる神は復活という恵みをもって応えられた。そのとき、不条理は主の死と共にその息の根を止められてしまった。主と共にある私たちにとって、もはや罪と不条理は力を持たなくなったのだ。罪と不条理を圧倒的に凌駕する神の愛が私たちに注がれていることが明らかになったのだから。それがクリスマスを祝う私たちひとりひとりに与えられている神の恵みである。

2012年12月16日日曜日

2012年12月16日 説教要旨


「 祈りを要請される神 」 ルカ18章1節~8節

「気を落とさずに絶えず祈らならなければならないことを教えるために」と、語られたイエス様のたとえ話。「祈らなければならない」と訳されている言葉は、原文ギリシャ語では「祈る必要がある」となっている。一体、誰が祈りを必要としているのだろうか。祈りは「私たち」の必要が満たされるためにするものだと、当然のように考えているかも知れない。だが、このたとえ話では「イエス様」が私たちの祈りを必要としておられ、私たちに祈ることを要請しておられる、そういうたとえ話なのである。たとえ話の結びで、「しかし人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか」と、主は言っておられる。「人の子が来る」というのは、先週の箇所で見たように主の再臨のことである。そのとき、地上に信仰を見出すことができるだろうかと主は言われる。この言葉にはイエス様の強い願いが込められているであろう。「私は人々の信仰が満ち溢れる中で迎えられたい。それを切望している。だが、そのように満ち溢れの中で迎えてもらえるのであろうか・・・」。ここでいう信仰は、絶えざる祈りを生んでいる信仰である。祈らずにはおれないという信仰。そういう信仰の満ち溢れの中で私は迎えられたいのだと、主は言われるのである。

では、その祈りの内容は何であろうか。一人のやもめが登場する。彼女は裁判官のところに行き、必死になって「相手を裁いて、わたしを守ってください」と訴えている。当時の社会では、生活に困窮しているやもめが数多くいたらしい。そして、やもめたちはしばしば、悪質な指導者や搾取する者たちによって虐げられていたそうだ。神の律法は、やもめたちに対して特に憐れみを施すようにと教えているが、実際には、弱い者を守るどころか、むしろ弱い者を食い物にしてしまう社会の現実があった。正義が行なわれていなかったのだ。おそらく、このやもめも何か不正なことでもって、苦しい立場に置かれてしまったのだろう。裁判官のところに来て、必死になって訴える。「裁きを行なってください。正義を打ち立ててください」と・・・。この必死になって「裁きを行なってください。正義を打ち立ててください」と訴えるやもめの姿の中に、主は弟子たちの姿、そして教会の姿を重ねておられるのである。主は山上の説教と呼ばれる箇所で「義に飢え乾いている者は幸いです」と言われた。義とは神の正しさ。神の正義がこの世に打ち立てられることを飢え渇くように求める者、神の正しい裁きが行なわれる日が早く来るようにと求める者は幸いだと言われたのである。このたとえも同じことを語っている。このたとえ話では、「裁く」という言葉が繰り返される。やもめが裁判官に正しい裁きを求めて食い下がったように、私たち教会に生きている者たちは、この不正がまかり通り、弱い者たちが虐げられている社会のただ中にあって、「神よ、どうぞ、あなたの裁きを行なってください。あなたの正義を打ち立ててください」と、飢え渇くように祈り続ける・・・その祈りをイエス様は切実に要請しておられるのである。神の正しい裁きが行なわれる時というのは、イエス様が再びこの世に来られる時である。その時、イエス様はすべてのものを裁き、白黒、決着をおつけになる。この世の歴史にピリオドが打たれ、そこに神の正義が打ち立てられる。主が再び来られる時というのは、神がお定めになるのであって、それがいつなのか、私たちには分からない。だが、神は私たちの祈りを用いる形で、その時をお定めになるのである。

 気を落とさないために・・とあるが、私たちは気を落としてしまうことがある。この不正な裁判官のように、「神など畏れないし、人を人とも思わない」人間が権力の座についているのだから、どうしたって、世の中が良くなるはずがない。いくら選挙に行ったところで、政治家たちだって、結局は自己保身ということが先に立って、本当になすべきことなんかしてはくれない。この世は正義が勝つなんてことはない。悪人が栄え、正しい者が馬鹿を見る不条理な世界なのだ。そう言って気を落とし、あきらめ、祈らなくなるのである。でも、このやもめはあきらめないで、必死になって食いさがった。そして裁判官の心は動く。やもめが可哀想だからではない。このままだと自分が持たないと思ったから。こんな裁判官でも訴えを聞いたのなら、「まして神は」・・・とイエス様は言われる。神は、この裁判官とは正反対の方。ならば、喜んで聴かれないはずはないと・・。困窮していたやもめ、信仰者は願い続けるより他、なす術がない。昼も夜も祈る。それは熱心であるからではない。昼も夜も問題が次々と起こり、不安が尽きないから。そして本当の解決は、この方のところにしかないと知っているから・・・。私たちはこの国が少しでも良くなるようにと選挙をし、選ばれた人たちに協力もする。だが政治の力だけでこの世の問題がすべて解決するとは思っていない。世の中の問題の根底には、人間の罪がある。エゴイズムという罪が。人間の力でその罪に勝つことはできない。罪に打ち勝てるのは主ただおひとり。だから主の再臨を切に待ち望むのである。マラナタ(主よ、来たりませ)の大合唱の中で主をお迎えしようと、祈りの火をともし続ける、それが教会。クリスマスの日、後に主を殺してしまうような不信仰に満ちた世に、イエス様は飛び込んで来てくださった。ならば、マラナタの祈りが満ち溢れているならば、主は速やかに喜んで来てくださらないはずがない。

2012年12月9日日曜日

2012年12月9日 説教要旨


先週の説教要旨 「 主は再び来られる 」 ルカ17章20節~37節

 世間でもクリスマスのお祝いがなされている。クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う日だという理解は持ちながら祝っているようだ。それはありがたいことである。しかし、教会のクリスマスの祝いと世間のそれとには決定的な違いがある。教会のクリスマスの祝いには、御子がお生まれになったことを喜ぶだけでなく、その御子が再びこの地上に来られることを待とうという希望が込められている。今朝の箇所は、御子の再臨についての言葉が語られている。その発端となったのはファリサイ派の人々の「神の国はいつ来るのか」との問い。彼らはまだ神の国は来ていないと思っていた。神の国というのは「神の支配」のこと。ファリサイ人たちは、もし神の支配がここに来たならば、ローマ帝国の植民地と化しているユダヤの国は今すぐ解放される。そしてダビデ時代のような繁栄した国へと復興されると考えていた。そのような解放をもたらす者こそ、救い主メシアなのだと考えていた。救い主であるイエス様は、もう彼らの間に来ておられるのだが、神の国の到来=ローマからの解放と考えていた彼らにはイエス様がなさっている働きを見ても、神の国が来たとは思えなかったのである。

神の国の到来に関して、旧約聖書が予言していることは足の不自由な人、目の不自由な人、耳の不自由な人が癒されるということが起きると言う。弱き者が立てるようになるのだ。あるいは、狼と子羊が共に住み、若牛と若獅子が草を食べ、乳飲み子がまむしの穴に手を入れるというように、弱肉強食の姿はなくなり、「愛の原理」が世を支配するようになる。神の国が来るとそういうしるしが現れるというのだ。愛に対立する原理は、罪の原理である。人間にエゴイスティックという罪がある限り、愛の原理が働く世の中になることはない。だからこそ、救い主は、人間の罪を取り除くための闘いをされているのだ。そのための究極の業として、主は十字架におかかりになる(25節)。救い主は、この世界が神の支配を中心とした愛の原理のみが働く世界とするための御業に集中される。それが救いなのであって、武力によるローマからの解放が救いなのではない。ファリサイ人たちにはそれが分からない。

 イエス様が来られたことによって、その救いの御業が始まった。神の国が始まったのである。だが、完成はしていない。その完成は、再び、イエス様が来られるとき、そう、再臨のときに完成するのである。その時までは、始まったけれども、途上にあるのである。それゆえに、弟子たちには戦いがある。神の国の完成へと向けて、少しでも愛の原理が働く世界となっていくための闘いがあるのである。忍耐が求められる。終わりまで耐え忍ぶことが求められる。そのことをおもんばかって、イエス様は弟子たちにも語られる(22節以降)。ここで言われていることの要点は、イエス様が再び来られるのは、突然のことであって、しかしそれは必ず、起こることだ。それを「確信」をもって待てばよいということ。イエス様は思いがけないときに来られる。稲妻がビカッと光るのが私たちにとって突然の出来事であるのと同様、イエス様も突然やって来られる。思いがけない時に来られるのだ。だから、イエス様が来られることにおのが目標を定めて、生きていなければならない。ノアの時代の人たちは、洪水が起こるなんて信じていなかった。ロトのときもそう。滅びが襲うなんて信じていなかった。それと同じように、人の子(救い主を指す表現)の再臨が起こるなんて全く信じられない、というようなことではいけないとイエス様は言われる。「人々は食べたり、飲んだり、めとったり、とついだり」と、日常生活をしている。しかしその日常性はいつまでも続くものではないのだ。どこかで断ち切られる。主による終わりがある。その終わりを計算に入れて今を生きているかどうか、それが問題なのだと主は言われる。

 主の再臨が起きるとき、一人は連れて行かれ、一人は残ると言う(35節)。救われる者と滅びる者との一線が現れるのだ。それまで全く隠れて見えていなかった一線が突然現れる。これまでひとつの絆で結ばれていて、何もかも一緒に体験していると思い込んでいた者たちの間に、断絶が生まれる。日常生活では隠れていた一線が浮かび上がる。永遠との関わりはそのように厳しく人を分けるのだ。「死体のある所には、はげたかが集まる」という言葉の意味は、主の再臨は、救いと滅びを地にもたらすということなのである。

 私たちは再臨ということをどれほど期待しているだろうか。切望しているだろうか。再臨の時は、罪からの完全な解放であり、愛の原理が完全に私たちの生の原理となる時。そのことを切望する姿勢は、私たちが愛に真剣に生きようとすることなしには起きない。愛の原理に生き得ない社会の罪、そしてその社会を形作っている一員である自分自身の罪、それと向き合わされ、何としてもそれから解放されたいと切望させられるのでなければ、再臨信仰が私たちの生活の根幹となることはない。愛に生きることと再臨を待つこととは深く結びついている。主の再臨を切望し、自らの愛の貧しさに耐え続けているとき、その自分を背後から支えてくださっている方がおられることに出会う。だから前を見ることができる。先になお苦しみがあるとしても、背後にある主の苦しみが私たちを支えている。

2012年12月2日日曜日

2012月12月2日 説教要旨


「 感謝を生む心 」 ルカ17章11節~19節

イエス様がエルサレムに上る途中、重い皮膚病に苦しんでいた10人の人を癒された話。病を癒された10人のうち、ただ一人だけがイエス様の元に戻って来て感謝した。なぜ1人しか戻って来なかったのか、私たちの関心をひく。主は戻って来た1人を外国人と呼んでおられる。さらにルカはわざわざ「この人はサマリア人だった」と書いている。この出来事はユダヤ人とサマリア人を対比する枠組みをもって伝えられているのである。おそらく10人のうち9人はユダヤ人で、主の元に戻って来た人だけがサマリア人であったのだろう。ユダヤ人とサマリア人は極めて仲が悪かった。サマリア人はユダヤ人が他民族と結婚して混血になった人たちのこと。神に選ばれた特別な民族であることに誇りを持っていたユダヤ人たちからすると、彼らは民族の誇りを捨ててしまった人たちであり、軽蔑すべき存在だった。そんな彼らがここでは一緒になってイエス様に助けを求めた。重い皮膚病という同じ苦しみを味わっているという事実が、彼らの間の障壁を取り去り、そこに深い絆を生んでいた。重い皮膚病にかかった者は、この当時、「神に捨てられた者」と見なされていた。神に棄てられた汚れた存在として、社会から隔離されて人目に触れぬよう、町外れでひっそりと暮らさなくてはならなかった。遠く離れたところに立ち、10人があたかもひとつの声のようになって叫ぶ、その姿をご覧になってイエス様は「祭司たちのところに行ってからだを見せなさい」と命じられた。当時、この病気が治ったか、否かを判定するのは祭司たちの役目だったからである。10人はすぐにイエス様のご命令に従った。だがその途中、サマリア人は自分が癒されていることに気がついて、向きを変えてイエス様のところに向かう。あのイエス様を遣わしてくださった神様が私を癒してくださったと、神様をほめたたえながらイエス様の元へと向かう。しかし他の9人は別行動を取った。彼らは祭司のところへ行くことを優先した。何がこの違いを生んだのか、聖書には何の説明もされていない。だが、この出来事がユダヤ人とサマリア人を対比する枠組みをもって伝えられていることからその理由を推測することができる。9人のユダヤ人たちは、自分たちが癒されたことを「神の恵みだ」と思わなかったのだ。むしろ癒されて当然、当たり前のことが起こったのだ。そもそも神に選ばれた民である自分たちがあんな病気になること事態、あってはならないことだったのだと思ったのである。しかし自分は神に捨てられた民族の一人であって、恵みに与る資格もないと思っていたサマリア人は、癒されたとき、それは恵み以外の何ものでもないと思ったのである。神の恵みの受け止め方がまるで違った。それが両者の違いを生んだのである。当たり前だと思う心からは、不平は生まれても感謝は生まれない。私たちは、本当は神様からの恵みであるのに、それが当たり前のことように考えてしまっている、そういうことがたくさんあるのではないか。健康であること、仕事がうまく行くこと、安定した暮らしができていること、それは自分が努力した結果であって当たり前のことなのだ。そう考えてはいないだろうか。しかしそれは本当に当たり前のことなのだろうか。入院中の山岡文姉が胃ろうをやめて自分の口で栄養を摂取できるようになった。「感謝です。感謝です。こんなにしていただいて」と山岡姉は言う。私たち健康な人間にとっては、口から物を食べられるというのは当たり前のことに過ぎないが、一度でも病気をした人間からすれば、それは決して当たり前のことではなく、神の恵みとして受け止められているのである。もうひとつのことを学ぼう。癒された10人には社会に復帰する道が与えられた。それはどんなに大きな喜びであろうか。しかしその喜びが訪れたとき、このサマリア人は人々との関係を取り戻すことから始めるのではなく、神様との関係に深く入ることから始めようとした。神様の元から・・・そこを人生の出発点、中心にしようとしたのだ。その結果、彼だけが「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」という宣言を聞くことができた。10人全員が癒された。しかしこの人だけが「救われた」と言われた。このことが示しているのは、救われるということは病気が癒されることよりもはるかに大きな恵みであるということ。救われている人間というのは、魂健やかに病むことさえ出来る。健康であること以上の祝福の中にいるから。救われている人間は、すべてのことを神様との感謝のかかわりの中で受け止め直すことができる。それは「立ち上がって、行きなさい」・・・「あなたは立ち上がれる。そして生きて行くことができる。私はあなたと共にいるから」という主の言葉を聞くことから、生きることができるから。楽譜の最初につくフラットは、最初にそれがついているだけでその曲全体を最後まで支配する。それと同じように、今こうして神様の元に戻って来て、そこから1週間を始めようとしている私たちの人生には、神様の恵みのフラットがつけられているのだ。「立ち上がって、行きなさい」という恵みのフラットが・・・。途中、悲しい調べが奏でられるようなことがあっても、その曲全体を支配しているのは、神の恵みのフラットなのだ。「ほかの九人はどこにいるのか」・・・イエス様は戻って来なかった9人を責めるのではなく、心配されている。彼らにも同じ言葉をかけたいと切望しておられる。私たちを用いて・・・。

2012年11月25日日曜日

2012年11月25日 説教要旨


「 人の力か神の力か 」 ルカ17章1節~10節

今朝の箇所には、赦し、信仰、奉仕という小見出しがつけられている。3つの異なるテーマが、バラバラに羅列されているかの印象を受けるが、「信仰とは何か」という一点でちゃんと結びついていると思われる。まず1節~4節、イエス様が弟子たちに罪を犯した者を赦すことを教えておられる。「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」・・・一日に7回とはすごい。私たちなら3回目ぐらいからは「あなたちっとも悔い改めていないし、本当は悪いなんて、これっぽっちも思っていないでしょう」と文句を言いたくなるだろう。イエス様は、8回目は赦さなくてもいいと言うのではなく、徹底して赦しなさいと言われているのである。私は、時々、こういうことを思い巡らす。私たちが地上の生涯を終えると、神様の御前に立ち、それぞれの人生の報告をするときが来る。それは、今まで不十分にしか理解できていなかった神様の愛を、その高さ、深さ、広さ、長さに至るまですべてを理解する時である。 そのとき私たちは、自分が赦すことのできなかった人、和解できないままに地上の生涯を終えてしまった人、そういう人たちのことを神様はこんなにも赦しておられたのか、こんなにも愛しておられたのかと知って、恥じ入るような思いになるのではないか・・・そう思い巡らすのである。ならば、そのようなことにならないようにと願うわけだが、実際には自分の信仰を見つめると、それほどの力もないし、勇気もないとため息をついてしまう。これは、もう自分の信仰を増していただくしかないと思う。弟子たちも同じように考えたのだと思う。今の自分の信仰、小さな信仰では、徹底してどこまでも赦す心に生きることなんかできない。これはもう、信仰を増していただく、強くしていただくしかないと・・。だから弟子たちは「わたしどもの信仰を増してください」と言ったのである。

 「わたしどもの信仰を増してください」、私たちも今まで幾度となく、このような祈りを繰り返してきたのではないだろうか。イエス様の御言葉に聴き従って行こうとすれば、必ずや自分の弱さを知らされ、こうした祈りを祈らざるを得なくなる。 赦すことが語られたなら、赦せない自分があることを知らされる。愛しなさいと言われたら、愛せない自分がいることに向き合わされる。喜びなさいと言われたら、喜べない自分であることを知らされる。感謝しなさいといわれたら、感謝できない自分であることを見つめさせられる。それが私たちの経験するところ。何度となく、ふがいない自分を知らされ、「私には信仰が足りない」と思う。しかし、信仰はそこから始まるのである。「イエス様は無理なことをおっしゃる」と言って、反発するのではなく、イエス様にお願いする気持ちになれたこと、そこから信仰は始まるのである。だがそこで問題となるのは、「信仰を増してください」という時に、その内容が何を意味しているか、である。弟子たちは、こう考えた。自分の中にある信仰の力は足りない。もっとその容量を増やしてもらって、私の内にある信仰が大きく、強くなるようにしてもらおう・・・。しかし、本来、信仰とはそうやって自分の中にさらに大きな力が蓄えられていく、そういうことなのだろうか。イエス様は、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」(6節)と言われる。信仰を大きくしてくださいと願う弟子たちに、信仰は本当に小さなものでよいのだと言われる。イエス様は、弟子たちの信仰に欠けている何かを指摘されたのだ。しかもそれが決定的に欠けているならば、信仰がないと断定されてしまうようなことを。それがからし種一粒の信仰・・・それは何なのか。

信仰は、私たちの内側における決心だとか覚悟だと、力が大きくなることではない。本当に信じることも、御心に沿うことも適わない、何ひとつできない自分であるにもかかわらず、それでも神様がそんな自分に関わり、この自分を捕らえて働いてくださるということ、そこに信仰があるのである。神様は関わってくださる。そこに信仰を見ていく。自分の力ではない。神様の力が私たちに働きかけてくださる。その主にすべてを委ねて行く。そこに、決して欠いてはならない私たちの信仰がある。からし種一粒の信仰とはそれである。私たちは自分の信仰の力がどれほどの大きさか、どれだけの容量があるかにこだわる。しかし、信仰の急所は力の弱い私たちに神様の御手が添えられているということこそが決定的な意味を持つことなのである。イエス様が話された「取るに足りない僕の話」は、そういう自分の力、自分のしたことから解放されている信仰者の姿を示している。イエス様の言葉を冷たく感じるかも知れないが、「するべきことをしたに過ぎません」と言うようにとの言葉は、それが自分の力による者ではなく、自分を通して働かれた神様の力であることを知っている者にしかできない発言、からし種の信仰に生かされている者だけが喜んで口にできる言葉なのである。私たちの成し得たところによるのではなくて、神様の愛の中で私たちが本当に受け入れられ、恵みのうちに生かされ、用いられて行く。高慢な思いの中で、何かをなすのではなく、私たちのすべてを主に任せて、主の働きの中に生きて行く歩みを続けて行きたいと願う。

2012年11月18日日曜日

2012年11月18日 説教要旨


「 神にその名を覚えられ 」 ルカ16章19節~31節②

 16章19節以下のたとえ話は、私たち誰もが関心を持っているであろう「死んだあとの世界」が舞台となっている。しかし、地獄とはこういうところだとか、天国はこういうところなのだとか、そういうことにだけ興味を持って読むと、イエス様がここで言わんとされていることを聞き違えてしまうだろう。なぜなら、イエス様は天国とか、地獄とか、死んだ後の世界については、あまり多くをお語りにならなかったから。あまり関心を持っておられなかったのである。もし関心がおありならば、もっとそういうお話をなさったと思う。ここでも、天国とか地獄はどんなところかが、主題なのではないだろう。このたとえ話は、いろいろな解釈がなされてきた歴史がある。生前苦しんだ人には、死後には報いられ、生前いい思いをした人は、あとで苦しむことになる。そうやって、逆転が起きる。人生とは、そうやってちゃんと帳尻が合うように定められているのだという理解。また、ヨーロッパの教会ではある一時期、このラザロという人物をヨーロッパの足元にあるアフリカ大陸の象徴ととらえ、物質的に豊かなヨーロッパのキリスト者たちが、貧しいアフリカの人たちを助けることなく、見捨てているならば、地獄に行くことになると解釈したこともあった。しかしこれらの解釈は、イエス様の真意ではないと思われる。なぜなら、お金持ちが地獄に行ったのは、貧しい人たちに不親切にしたとか、生きているときに良い思いをたくさんしたからだとは言われていないからである。むしろ、お金持ちは自分の家の前にラザロがいることを許していたわけだし、食卓の残りのものもちゃんと与えていたようなのだ。加えて、ラザロが天に迎え入れられたのも、彼が愛に富んでいたからだとも書かれていない。もっと別の理由から、彼らの行く末が決まったようなのである。イエス様は何を語っておられるのか。

 そこでまず考えたいのは、このたとえ話の主役は誰か、ということ。どう読んでも、金持ちだろうと思う。実際、ラザロには一言もセリフがない。ところが主役であるはずの金持ちには名前がなく、脇役のラザロには名前がある。これはどういうことなのだろうか。そこでいろいろ調べて見ると、イエス様がなさったたとえ話の中で名前がつけられているのは、このラザロたったひとりだけなのだ。あの放蕩息子にも、不正な管理人にも名前はない。ならば、このラザロという名前にはどんな意味があるのか、興味がわいてくる。ラザロは、ヘブライ語のエルアザルという言葉をそのまま音だけをギリシャ語に移したもので、「神は助ける」という意味を持つらしい。ある者はもっと踏み込んで、神は助けるということは、「神の助けなくしては生きられない者」ということ、それがラザロの意味することだと言っていた。ラザロ、「神は助ける」、ラザロ、「神の助けなくしては生きられない者」、このことは、このたとえ話の真意を理解する大切な鍵でなる。と言うのも、ここになぜ、ラザロは天国に迎え入れられ、お金持ちはそうではなかったのか、その理由を聞き取ることができるからだ。ラザロがなぜ、天に上げられたのか。神に助けられたのである。ラザロは神に助けていただく以外には生きられなかったのである。自分の力で食べ物を手に入れることのできないラザロ、日々、神に寄り頼むしかすべがなかったであろう。真剣に願いながら生きていたであろう。そして神は、お金持ちの心をも動かして、ラザロを養われたのである。一方の金持ちは「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」と言う。労働者の70日分の賃金に値するという高価な紫の衣を着て、毎日遊び暮らしていた。この「遊び暮らしていた」という言葉をある人は、「毎日、お祭りをしていた」と訳していた。お祭りというのは、後先のことを忘れて、今このときに酔いしれるもの、それが祭りの特質。このお金持ちも、自分の今の豊かさに酔いしれていたのだ。今の豊かな生活に満ち足りていて、神に助けていただく必要など感じていなかった。神に助けていただかなければ生きて行けない、そんなことは露ほども考えられなかった。お金持ちは、ラザロの名前が示す「神の憐れみによってのみ生きる」ということが、自分にも当てはまる真理であることを忘れていた。この金持ちには名前がない。しかしもし、名づけるとしたならば、彼の名前もまたラザロなのである。イエス様が語られた数多くのたとえ話の中で、ただ一度、このラザロという名前だけをおつけになられたというのは、意味のないことではない。それは、すべての人間がラザロという名前になるのだということではなかったかと思われるほどのことである。あの放蕩息子の弟の名前もラザロ、兄の名前ももちろんラザロ。ここにいる私たちひとりひとりもラザロ・・・「神の助けなくしては生きられない者」・・・そういう者を「神は助ける」。ラザロ、それが人間の本当の姿であり、すべての人間の名前なのである。

 お金持ちであれば、世間の人たちは皆、その人の名前を知っていて、ちやほやするだろう。反対にラザロのような貧しい人の名前など、誰も覚えようとはしないだろう。けれども、人に知られていなかったけれども神には知られているのである。神は世の人々が評価する人間の名前を知らず、かえって、世の知らない人の名前をご存知であられる。そう、神に声をあげ続けなければ生きられない人の名前を。私たちは皆、神にその名前を覚えられている者なのだ。

2012年11月11日日曜日

2012年11月11日 説教要旨


「人には尊ばれ、神には忌み嫌われ」 ルカ16章14節~18節

 「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」(16節)。これは、イエス・キリストが来られたことによって、新しい時代が到来したことを宣言するものである。律法と預言者は、旧約聖書のことを指す表現だが、旧約の時代は救いの到来をひたすら待ち続ける時代であった。それに対して、今はその救いが到来した、新しい時代なのである。その救いの中に、人々は力ずくで入ろうとしていると言う。何か自力で入ろうとするかのように聞こえるが、人にはその中に入り込んでいく力はないのだ。入り込む力は神の側にあるのだ。ルカ14章の盛大な宴会を催した主人のたとえを思い起こそう。宴会に招待される資格のなかった者たちが、次々と宴席を埋めるために通りや小道から無理矢理に連れて来るという話であった。神様の方が力ずくで人々を神の国へとかき集める、という話。この話を思い出せば、ここの意味がより分かるのではないか。だからある人はここを「だれもが皆、激しく招かれている」と訳すべきだと言っている。イエス様の「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」という言葉を連想されよう。心が貧しいというのは、「神様、あなたの憐れみにすがるより、私が救いに入ることなど考えられません」と神様の前に小さくならざるを得ない者のこと。実は、すべての人がそのような者であるはず。しかしそういう人こそが、救いの中に招き入れられると言うのである。そうやって、何の資格もない者が神様の憐れみによって神の祝福の中に生きることができる時代が到来したのである。それにもかかわらず、自分の力だとか、自分の立派さだとか、自分の正しさによって、救いの中に入ろうとする者たちがいた。それがファリサイ人たちである。14節に、「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った」とある。一部始終というのは、イエス様が不正な管理人のたとえを語り、これを模範とするように弟子たちに言われたことを指す。ファリサイ人たちは思った。「神様は不正など、ほめられることなどない。神様は正しい人がお好きなのだ。この我々のような正しい者たちのこと・・・。このイエスという男は神様のことなど、ちっとも分かっていないではないか」・・それであざ笑ったのである。彼らは、自分の力、正しさ、その自信にあふれていた。

 そこで、イエス様は彼らに言われた。15節、「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」。人から賞賛される彼らの信心は、神の前では退けられ、忌み嫌われてしまうものに過ぎないと言う。なぜか・・。自分の良心によって立っているからである。神の恵み、憐れみを必要としていないからである。自分の力で、堂々と胸をはって、神様の前に自分の正しさを主張することができると思い込んでいる。それは、神様が忌み嫌われることでしかないのである。イエス様は、そういう彼らの正しさは、神様のまなざしには穴だらけであることを離縁の問題を実例に取り上げて語られた。「妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる」(18節)。神の律法には「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」と書かれている。この律法の趣旨は、本来離縁は望まれるものではないが、どうしても2人がうまく行かず、これ以上、2人が一緒にいることは、互いにもっと深く傷ついてしまうことになるのであれば、別れて新しい生活をそれぞれに持った方がよいという神様の憐れみに根差すものであった。だが、当時のファリサイ人たちは、気に入らない妻を離縁するための根拠として都合よく利用していたのである。男のエゴを貫くための手段として悪用したのである。それでいて、自分たちは神の律法に忠実に生きていると主張する。彼らの「律法への正しさ」は、自分たちに都合よく解釈し、変容させられてしまった中での正しさに過ぎなかった。17節「しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい」とあるように、この新しい時代は、人間に都合よく骨抜きにされてしまっていた神の律法がその本来の姿を取り戻される時なのである。

 神の憐れみによって立とうとするのか、それとも、なお穴だらけでしかない自分の正しさによって立とうとするのか、そのことが問われている。ファリサイ人たちは、人々から見られることを気にして、人々から、「あの人は立派な信仰を持っている」と賞賛されることを求め、周囲の目だけが大きくなって行った・・・。しかし、人は人々だけに見られて生きているのではない。神の目にも見られている。しかしその神の目は、それに見つめられていることに気づいたとき、それを自覚したとき、自分の身勝手さ、小ささ、弱さ、愚かさを示され、のさばっていた自分の正しさが打ちのめされて、神の御前での貧しさに恥じ入り、謙りに導かれ、心を開いて上からのものに満たされることを切に祈る者とされるのである。神の目は弱い者、力のない者、傷ついた者を立たせる憐れみの目であるが、同時に、自分の力を誇り、自分の立派さを主張する者にとっては、それを厳しく退ける目である。私たちは、この神の目の中にあるとき、周囲の目を病的にまで気にする恐れ、不安から解放される。どもりの少年が礼拝で祈りを見事にしたように。

2012年11月4日日曜日

2012年11月4日 説教要旨


「 首尾一貫して 」 ルカ16章1節~13節

 なぜ、こんな話が聖書の中に書かれているのだろうか。読んだ第一印象で、そう思った方は多いと思う。イエス様がまるで不正を勧めておられるかのような、戸惑いを覚えるたとえ話である。たとえ話は通常、たとえの本体部分と、たとえの意味することを伝える解説部分とから成る(例外もあるが)。この不正な管理人のたとえでは、本体は8節の「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」までである。それ以降は解説に当たるが、「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」、「不正にまみれた富で友達を作りなさい」、「ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と解説がいくつも折り重なり、かえって分りづらいものとなっている。これは、このたとえを聴いた最初の人たちにもよく分からなくて、こうではないか、ああではないかと、イエス様が別の機会に語られた言葉のいくつかをここに持ってきて解説を試みたせいだと考えられている。それだけ、解釈が難しかったのである。一体、イエス様は何を言わんとしてたとえ話を語られたのか。

 そこでまず、注意したいのが、このたとえがイエス様の弟子たちに対して語られたものだと言うこと(1節)。15章では3つのたとえ話をもって、「神様のもとに戻って来るように」との招きが語られていた。弟子たちはそれを聞きながら、「我々はすでにイエス様の弟子になっているのだから、これらの話は卒業してもう関係がないのだ」と、いささか呑気に聴いていたのかも知れない。そこでイエス様は、その弟子たちに向かって、「それではあなたがたにもたとえを話そう。あなたがたは、放蕩息子のように、確かに神様のもとに帰って来た。そして私の弟子となった。それでは、これからはどのように生きるのかね」と、問おうとされたのである。放蕩息子のたとえでは、父親の元に帰って来た後、彼がどういう生活をしたかは書かれていなかった。再び息子として受け入れられ、父の財産を手にした彼は、その後、どのように生きようとしただろうか。父の愛を知ったところで、どう生きようとしたか。そのことを、弟子たち自身の問題として真剣に考えさせるために、この不思議なたとえ話をお語りになったのである。

 急に矛先が自分たちに向けられて、弟子たちはビックリしたかも知れないが、それ以上にたとえの内容に驚いたに違いない。不正を働く管理人を模範としてお語りになられたのだから・・・。この管理人は自分の利益ばかりを考えている人間で、主人に対して忠誠を尽くすなどということはひとつも考えていない。主人が自分を信頼して、財産の管理を任せてくれたことをいいことに、それを横領してしまう。それがばれてしまったときに反省するどころか、もっとあこぎなことを考えた。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。それで主人に負債のある人たちをひとりひとり呼んで、主人に対する負債を減額してあげることにする。そうやって恩を売って仲間にしておけば、自分がクビになったとき、彼らが自分を迎え入れてくれるだろうと考えたと言うのである。一体、こんな男のどこがお手本なのか。「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。 この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」とあるように、イエス様は弟子たちを光の子らと呼ぶ。そして神から離れてこの世の価値観に従って生きているこの世の子らと区別しておられる。私たちがここではっきりと知ることができるのは、この男は徹底した態度を取っているということ。首尾一貫したやり方をしていて、悪いなら、悪いことに徹している。途中で、もう悪いことはやめて、反省してやり直そうなどとは思わない。悪く生きることに徹している。中途半端ではない。イエス様が弟子たちに問うておられるのは、この徹底であろう。あなたがたは光の子として、神様の愛の光の中で新しく歩み始めているではないか。その光の子としての生き方をあなたがたは徹底しているのだろうか。放蕩息子が、父親の元に戻って来て、再び、父親から財産をもらったときに、もう一度、あのときみたいな生活をしてみたいと逆戻りすることを果して望むだろうか・・・。そんなことはない。ならば、あなたがたはどうなっているか・・・・イエス様はそれを問うておられる。光の子として生きるときに、そこには何の苦労もなくなるということはない。依然として途方に暮れることもある。行き詰り、切羽詰まることがある。そのとき、「やっぱり神様だけでは頼りない。富にも頼らねば」と、神と富と仕えようとするのではなく、覚悟を決めて、首尾一貫して神の愛を信じて生きる光の子として生きようとするか・・・。この管理人は、自分が徹底して信頼し抜いたお金の力、お金さえあれば人の心さえも抱き込むことができるのだという思いを貫き通した。そこでイエス様は「あなたがたが知っている神の愛の力は、金銭に勝るではないか。なぜ、そのことに気がつかないのか。なぜ、そのことにもっと深く立とうとしないのか。あなたがたは私の弟子、私の同志ではないか。なぜ、その光に生き抜く賢さを持たないのか」と問うておられるのだ。神の愛の光は決して消えない。たとえ、行き詰まり、途方に暮れることがあっても、あなたは神の愛の光の中を生き始めている。祝福の中に立っている。それを信じていいのだ。