2013年6月24日月曜日


成瀬教会 <聖書日課>  6月24日~6月30日

6月24日(月)コリントの信徒への手紙Ⅰ 6章12節~20節
  コリントの教会の男性たちの中には、平気で買春する者がいました(15節)。信仰は精神的なものであり、魂に関する事柄である。だから救いとは関係ない肉体の欲望をどのように処置しようが問題ないと考えたのです。しかし、救いというのは魂だけでなく、肉体にも関わるものであるとパウロは言います(13節~14節)。聖なる神の霊は、私たちの肉体をその住まいとしてくださっているほどです(19節)。神の聖さを知る者には、これは驚くべき事です。この恵みの事実に立つならば「 わたしには、すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない 」(12節)というパウロの言葉が、自分の行動基準となるでしょう。

6月25日(火)コリントの信徒への手紙Ⅰ 7章1節~7節
  性欲が問題になっています。パウロにはコリント教会の人から質問が寄せられていて(1節)、それは6章16節~18節にあるように娼婦と交わることがいけないならば、それは性欲そのものを禁じると言う事ですか?と言う内容だったようです。パウロは夫婦以外の性関係は否定しますが(1節)、性欲そのものは否定せず、それを満たすために不品行をするなら、むしろきちんと結婚しなさい(2節)と言います。パウロはさらにこうも言います。結婚は、相手に縛られることである(4節)。自分は相手のためにあり、相手に対して責任がある存在になること、それが結婚。不自由と言えば不自由。しかしそのように互いを引き受けて行くことの中で深められて行くのが結婚の愛なのです。単に好きというレベルでは続かない生活なのです。

6月26日(水)コリントの信徒への手紙Ⅰ 7章8節~16節
   未信者の連れ合いと結婚生活を送ることへの是非が問題になっていたようです。パウロの主張は、神はあなたがたが平和な生活を送るようにと召された(15節)ということにあります。ここでの平和な生活とは、何よりも神との平和を指しています。あなたが神からの平安をいただいて、その平安をもって連れ合いに接することが大事であって、自分が連れ合いを何とか信仰に導かないといけないと焦る必要はない(16節)とパウロは言います。14節の言葉は、神にすべてをお任せして、神の平安の中に立っているパウロの姿勢から生まれたものです。そのように、広い心で接していれば、もしかすると神が願いにまさる信仰の奇跡を連れ合いにも起こして下さるかも知れないという明るい望みを見ている人の言葉なのです。

6月27日(木)コリントの信徒への手紙Ⅰ 7章17節~24節
 21節の言葉からパウロは奴隷制度を肯定していたと誤解されることがあります。でも違います。人は皆、何か気にすることを持っている。奴隷であるとか、容姿が悪いとか、口下手だとか、財産がないとか、家族にこういう者がいるとか・・。しかし、キリストの奴隷となった者は(22節)、気になることがなくなる。それらから解き放たれ、自由になる。けれども救われた後も、そういうことを気にするあまり、奴隷であることをやめようとするのはおかしい。救われた時の自分をそのまま受け入れ(24節)、それを気にしなくなる時から、本当の意味で、キリストの奴隷として自由に生き抜く歩みは始まるのです。何か気にしていることがありますか?

6月28日(金)コリントの信徒への手紙Ⅰ 7章25節~40節
  コリントの教会の人たちは「 世の終わりが近い 」という切迫感を持っていました(26節、29節、31節)。そこで、こんな時に結婚を考えてもいいのか?という議論があったようです。その背景を無視してここから結婚の原則を読もうとすると誤解を生じます。しかし、私たちも定められた時が迫っている(主は来られる)という緊張感を忘れていないか?自らに問う必要はあるでしょう。主が来たりつつある時を私たちは生きているのです。そのことを知るとき、私たちの生活はどうすれば主に喜ばれるか(32節)、ひたすら主に仕える(35節)ことができるか?それを判断の軸にした生活になっていきます。この世に自分の命を預けてしまうような生き方(31節)は、自然とその姿を消して行くことでしょう。

6月29日(土)コリントの信徒への手紙Ⅰ 8章1節~6節
  コリントの町には、たくさんの偶像の神々があり、町の市場には、それらの偶像に供えられた動物の肉が出まわっていたようです。そこで教会内にそのような肉を食べて良いのか?それを食べると滅びるのでは?という議論が起きました。パウロは、その問いへの具体的な答えを7節以降で示しますが、それに先だって考え方の基礎を提示しています。中心は4節です。偶像の神など存在しない。ありもしないものを恐れず、唯一の神が万物の源であると知りなさい(6節)。偶像何するものぞと、唯一の神に愛され、知られ、支えられていることを堅く信じればよい(3節)。

6月30日(日)コリントの信徒への手紙Ⅰ 8章7節~13節
 偶像の神々など本当は存在しないのだから、そこに供えられた肉を食べても全く問題はありません。しかし、そのような知識を誰もが持っているわけではなく、ある人はクリスチャンになった後もそれを食べると汚されると思い込んでいます(1節)。パウロは、そのような人たちを罪に誘うなと言います(9節)。つまり、知識を持たないそのような人が、堂々と肉を食べている人を見て、本当は心の中で整理がついていないにもかかわらず、見よう見まねで肉を食べる時、その人はいつまでも良心がさいなまれることになります(11節)。その場合、知識のある人は兄弟をつまずかせたのであり、キリストに罪を犯したことになるのです(12節)。食べても平気と分かっていても、兄弟に配慮して食べない。それが信仰者の判断です。

2013年6月18日火曜日


成瀬教会 <聖書日課>  6月17日~6月23日

6月17日(月)コリントの信徒への手紙Ⅰ 3章10節~17節
  建物の土台は、建築家などの専門家でなければ、あまり人目をひかないものです。皆、土台の上にのっかっている部分だけに関心が向いてしまいます。しかし、建物を根底から支えているのは土台なのです。あまり人目につかないけれども、しっかりと建物を支えている、それが土台です。パウロは、私たちの人生の土台にはすでに「 イエス・キリスト 」が据えられているのだと語ります(11節)。その土台は、私たちのうつろいやすい目にはとまりにくいのですが、確かに私たちの人生を根底で支えていてくださるのです。だから、その土台にふさわしい上物(私たちの人生)を建て上げようとパウロは勧めます。

6月18日(火)コリントの信徒への手紙Ⅰ 3章18節~23節
  だれも自分を欺いてはなりません 」(18節)。これは、すぐ前の17節で「 あなたがたはその神殿なのです 」と言われた言葉とつなげて読めば、「 すでに神の霊が住む神殿となっている自分を欺くな 」と言う意味であると分かります。それでは、自分を欺くはどういう事でしょうか?パウロは、それをこの世の知恵とのかかわりで述べます(18節~20節)。この世の知恵は、「 神などいない 」と言って自らの知恵を誇ります( 口語訳 詩編14編1節参照 )。しかし、キリスト者は、すべてが神のものであることを知っています(22節~23節)。キリスト者がまるで神などおられないかのような生活をしてしまうこと、それが自分を欺くことなのです。「 神を軽んじる生活は、実は自分自身をも傷つける生活になっている 」のです。

6月19日(水)コリントの信徒への手紙Ⅰ 4章1節~5節
  コリントの教会では、パウロ、アポロなどの伝道者たちを裁いて( 評価して )、それぞれに自分の好みの伝道者を支持して分派活動が起こっていました。人を評価することは、ある意味でその人を支配することになります。しかしパウロは、あなたがたに評価されても少しも問題ではない、いやそればかりか自分で自分を評価することさえしないと言います(3節)。私たちの誘惑は、絶えず人々の評価にさらされるし、自分でも自分を評価する心から自由になれないところにあるでしょう。しかし評価すること、されることに心奪われることは、神が喜ばれることではありません。なぜなら、そのとき、すべての人を評価されるお方は、神様であることを忘れているからです(4節)。

6月20日(木)コリントの信徒への手紙Ⅰ 4章6節~13節
  コリントの教会の人々は、神様からいただいた賜物が大きく豊かであったために、非常に高ぶって伝道者たちを裁き、勝手に上に立つ王様になっていました(7節~8節)。そこで、彼らに裁かれ続けているパウロの言葉です。「 わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています 」(10節)。「 侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています 」(12節~13節)。侮辱に対して呪いの言葉を返すのではなく、祝福を返す。下に立ちながら祝福するのです。十字架につけられたイエス様をほうふつとさせます。パウロのこの低さの秘密はすべての人の賜物は、神様からいただいたもの(7節)、との受け止め方にあります。心に刻みたい姿勢です。

6月21日(金)コリントの信徒への手紙Ⅰ 4章14節~21節
  そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい 」(16節)。倣うとは、まねることです。「 わたしに倣え 」とは、ずいぶん傲慢な言葉に聞こえるかも知れません。しかし、昨日の箇所で教会の人々の高ぶりを戒め、低きところに立たれたキリストを指し示したパウロの言葉とあれば、決して高ぶりの言葉には聞こえません。そうです。これは、神様の恵みのみによって自分は生かされている、と実感しているからこそ言える言葉なのです。自分の立派さを誇る者には決して言えない言葉です。欠けの多いこんな私でも神様の恵みに支えられて、こうやって生きることができている。主を証しする信仰者の姿は、最後はそこに行き着きます。

6月22日(土)コリントの信徒への手紙Ⅰ 5章1節~13節
  コリントの教会は、教会外の人が聞いても驚くような問題を抱えていました(1節)。しかし、そのような問題が現れてきた時に、彼らは何もせずに放置していました。パウロは一貫してそれを取り除けと言います(7節、13節)。そして主の十字架の出来事によって(7節)、私たちにはすでに罪というパン種のない清い心で過越を祝えるようにされているのだから(8節)、もし、なおそのところで誠実でなければ主の十字架の恵みを十分に受け入れることを拒否することになると言います。主の恵みに応えて精一杯、罪と闘うパウロ。私たちの立つべき所が示されています。

6月23日(日)コリントの信徒への手紙Ⅰ 6章1節~11節
 コリントの教会では、教会内の争い事を一般の裁判所、すなわち信仰を持たない人々に訴えて解決しようとする動きがあったようです(1、4、6節)。そのような事をするあなたがたはすでに負けていると、パウロは言います(7節)。教会の外と内とでは、問題の解決の仕方が違うからです。外の裁判では、どちらかが正義でどちらかが不義という形で決着します。しかしパウロは「 なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのですか 」と問うています。信仰の世界では、相手が間違っていて自分が正しい状況にあっても、そこで自分の正しさを貫いたがために、相手の立ち直りを閉ざす結果となるなら、その対応は誤まりとなるのです。キリストは、どのようにして不義な私たちを立ち直らせてくださったか?これが教会の問題解決法です。