2013年11月11日月曜日


先週の説教要旨 「 契約の子 」 使徒言行録3章11節~26節
  この箇所にはペトロが語った説教が記されている。エルサレムの神殿の門のそばで物乞いをしていた生まれつき足の不自由な男が、ペトロたちに「 ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい 」との言葉をかけられると、たちどころに立ち上がり、歩き出すという奇跡が起きた。それに驚いて集まってきた人たちに向けて語った説教である。ペトロの説教は、自分の力や信心によって、この人を歩かせたのではなく、イエスの名を信じる信仰がこの人を強くし、完全にいやしたのだと言って、そのイエス・キリストがどのようなお方であるかを集中して説き明かす説教である。

  ペトロはイエス・キリストをいろいろな名称を用いて人々に紹介している。「 僕イエス 」(13節)、「 命の導き手イエス」(15節)と言った具合に。今朝は、この「 命の導き手 」という言葉に注目してみたい。「 あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です 」(15節)。
 「 導き手 」と訳されている言葉はとても豊かな意味を持つ言葉で、「 はじめ 」を意味する言葉から生まれた言葉。だからヘブライ人への手紙ではこの言葉を「 創始者 」というふうに訳している。命の創始者、命を造られた方というふうに。はじめというところから、先頭を歩く者という意味が引き出され、導き手という意味をも持つようになった。新共同訳聖書はそれを採用している。イエス・キリストは命の創始者、命の源。その命の源である方を、あなた方は殺してしまったとペトロは言う。命の源である方が殺されてしまう・・・そんなこと、ありえるのだろうか・・・。しかし、そのありえないことをあなたがたは引き起こしたのだ。それがあの十字架の出来事だったのだとペトロは言う。なぜ、そんなありえないことが起きたのか・・・・。人間が抱えている罪というのは、結局のところ、命の源である方を殺してしまう、なきものとしてしまう(なきもののように無視して生きる)ことを願う・・・それが人間の罪の性質なのである。しかし父なる神は、この方を死者の中から復活させられた。神はこの罪から人間を救う方法はないかと考えられた。そして唯一の方法として考えられたことが十字架の身代わり。イエス・キリストを人間の罪の身代わりとして十字架につけて殺す、それによって罪の償いを果させる。そうすることによってしか、人間の罪が消し去られる道はない。父なる神はそう決心して、実際にイエス・キリストをこの世に送って来られたのである。

あなたがたは、このイエス・キリストを殺してしまった。私たちには、あの十字架において人々のイエス様への殺意が成就してしまったように思えた。しかし神は・・・・そうなのである、あそこで成就していたのは罪人を救おうとされた神の御心であった。神の御心は変わらない。 しかし神は人々の悪しき業を救いのための御業として用いられたのである。「 しかし神は・・・」、この言葉が私たちの口癖になったらどんなに素晴らしいことだろうか。私たちは、「 しかし私は・・・」というように、神という言葉が私に入れ替わり、いつも結論が「 しかし私は・・・ 」ということで落ち着いてしまう。しかし信仰に生きる者にとって、結論はいつも「 しかし神は・・・」なのである。

ある英語の訳は、「 命の導き手 」をAuthor of life と訳していた。Authorと言うのは、著者という意味。命の著者、人生の著者。イエス・キリストはあなたの人生の著者。真にあなたの命の源として、あなたの人生を導かれる方。あなたの人生の1ページ1ページを開いて、用意してくださる方。主が用意されるその筋書きは、恵みで満ちている。星野富広さんの詩に「 秋のあじさい 」というものがある。「 一日は白い紙 消えないインクで文字を書く あせない絵の具で 色をぬる 太く細く 時にはふるえながら 一日一枚 神様がめくる 白い紙に 今日という日を綴る 」・・・・私のために白い人生の1ページを今日も用意して、めくってくださる主に信頼して、そこに自身の一日の歩みを書き込んでいく喜びが伝わってくる詩である。人生とは、そうやって主から与えられるもの、自分のものじゃない。自分のものだと考えると、自分でその責任を負わなくてはいけないと考えるようになるから、つらくなる。何でも自分ひとりで背負っているように思えてしまうのである。だが、主の筋書を信じる者は違う姿勢で生きるようになる。それは無責任ではなく、主に委ねるという死生を生む。人生の著者に委ねつつ、生きる。

私の牧師仲間の知人は、自分が犯してしまった大きな過ちを赦せずに苦しんでいた。すでに相手も相手の家族も、彼を赦してくれていたのだが・・・。彼はその苦しみをノートに書き綴った。毎日、毎日・・・。そうやって彼は過去にとらわれ、新しい人生の一歩を踏み出せないでいた。その気持は痛いほど分かる。彼のことを心配した友が彼を旅行に誘った。だがその旅行の最中に、彼はその大切なノートを無くしてしまう。何度、来た道を引き返して探しても見つからない。だが奇しきかな・・・彼がそのノートを無くした日は、彼があの忌まわしい過ちを犯してしまった日と同じ日であった。彼は、主が「もう過去の過ちにこだわるな。新しい一歩を歩み出そう 」と働きかけくださったのだと受け止めた。(2013年11月3日)

2013年11月3日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  11月4日~11月10日

11月4日(月)コリントの信徒への手紙Ⅱ 9章6節~15節
  「 各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです 」(7節)は、大切にしたい御言葉です。献金のことについてパウロは語りますが、おのおのが心で決めれば良い、喜んで与えれば良いと言います。そのような強制など感じない、不承不承などと感じない心はどこから生れてくるのでしょうか?それは神様が私を生かし、支えていてくださるという信仰です。5羽まとめて買えば1羽おまけについてくる雀でさえ、神は御目を注いでいてくださる。その雀以上の存在である私に神がまなざしを注がれていないはずがない(ルカ12章6節~7節)。すべてを神にお任せしている信仰は、いつでも喜んで捧げる心を造ります。

11月5日(火)コリントの信徒への手紙Ⅱ 10章1節~6節
 パウロは、コリントの一部の人たちから悪評をもらっていました(1節)。しかし、そのような悪評を言う者には勇敢に立ち向かうと言います(2節)。「 わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります 」(4節)。パウロは神が与えてくださる戦いの武器、神に由来する力によって悪評にも立ち向かいます。その武器は、キリストの優しさと心の広さ(1節)です。悪に対して悪をもって戦わない。悪に対して善をもって戦うのです。そこに神に由来する力が大きく働きます。世の人には、愚かな戦い方に見えるかも知れませんが、これが最も良い結果を得る戦い方なのです。

11月6日(水)コリントの信徒への手紙Ⅱ 10章7節~11節
   パウロは12弟子の後から使徒として登場しました。コリント教会のペトロ派を自認する人たちは、自分たちは12使徒の直系であり、後から「 自分は使徒だ 」と出て来たパウロの、使徒としての権威を容易に認めることができなかったようです。私たちには権威を正しく理解して受け入れるのを難しいと感じることがあります。権威=威張るというイメージがあるからでしょうか。しかし、神から与えられる権威は、威張る権威ではなく、御言葉を通して人を建てあげる権威です(8節)。信徒も牧師も共に、御言葉を語り抜くために立てられている権威を重んじるのです。御言葉を語る牧師も自分に与えられている権威をいい加減に考えてはいけない。信徒も自分たちを建て上げるために目の前に置かれた権威を重んじる。そのようにして私たちは、実は人の権威ではなく、キリストの御業の権威を重んじるのです。

11月7日(木)コリントの信徒への手紙Ⅱ 10章12節~18節
   コリント教会は、パウロの伝道生涯の中でもかなり長く時間を費やしたところです。しかしコリント教会では、「 パウロは限度を超えて働いた。他の伝道者に任せていれば良いのに、わざわざコリントまで来て長く働き、自分たちを誇ろうとしたのだ 」という非難があったようです。そこでパウロは、自分たちは限度を超えてはいない。むしろコリント教会の活動も自分たちの限度の範囲内に過ぎないと反論しています。自分が神様から託されている限度/範囲( 能力 )を正しく理解し、そこで精一杯働くことで満足できる心があるのは素晴らしいことです。他者と比較する心から自由になるには、神は一人一人に能力、範囲を与えておられる。しかし、それは「 公平に 」ではないという事実を真摯に受け止めることが大事なのです。

11月8日(金)コリントの信徒への手紙Ⅱ 11章1節~6節
   キリスト者は、キリストの愛以外のものは受け入れません。つまり、キリストへの愛を損なわせるようなものを退けるのです。ただひたすら目の前におられるイエス様を愛するのです。パウロはそれを結婚の関係にたとえています(2節)。さしずめパウロは、自分の娘を一人の人に嫁がせた父親の心境でしょうか。夫であるキリストへの愛を一途に貫いて愛のかかわりをいよいよ深めて行ってほしい。誘惑があることを知っているだけに、一層真剣に願わずにおれないのです。そのようなパウロの抱く熱い思いは、神様がコリントの人々に抱く熱い思いの反映なのです(2節)。パウロの言葉から私たちに注がれている神様の愛が見えてきますね。

11月9日(土)コリントの信徒への手紙Ⅱ 11章7節~15節
 パウロはいろいろな教会で伝道活動をしましたが、それぞれの教会の事情に応じて、伝道者としての報酬をもらったり、もらわなかったりと、自由な形で伝道しました。コリント教会では、無報酬で伝道したようです(他教会の援助で伝道した)。それがかえって、パウロはやましいところがあるから報酬を受けなかったのだと非難される結果を招いたようです。なぜ、パウロが無報酬で伝道したのか、コリント教会への配慮があったのでしょうが(9節)、詳しい理由はわかりません。自分の思いやりを非難の道具にされてしまったパウロの心境を察します。そのようなパウロの自由は、独善的でなく神がご存知です(11節)と言える点にかかっています。

11月10日(日)コリントの信徒への手紙Ⅱ 11章16節~33節
 自慢話をすることは愚かな事です。しかし、パウロはそれをしないわけにはいかないところに置かれていました。彼はあえて、愚か者になって、肉の誇りを誇ります。キリストのために数多くの労苦を経験してきたことを長々と語ります。パウロの伝道者としてのスタートはダマスコでした。30節~31節は、パウロのダマスコでの体験です。そのスタートは苦難から始まりでしたが、そこでパウロは神のご加護を体験したのです。そのことがいつも伝道者パウロの苦難に対する姿勢を造りました。神は一人一人にそのような信仰生活を支える原体験を与えてくださいます。